悩んでいます――2024/02/22

atoraku
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昨日バイトの前にすこしだけ読んでいた『季節の記憶』に、便利屋をやっている松井さんが「この仕事もマンネリになってきちゃったなあ」とこぼす場面があって、その日それから赴くことになるバイトについて否応なく思いが向いた。松井さんは十年間だけど、たった二年半ほどの自分がマンネリなどと言っていいのだろうか、と逡巡する。なにかをマンネリだと言うことに抵抗があるのは、その日そのときに起きている出来事はそこにしかなく、いくら仕事をしていてもすべてを把握することはなく、間違えたり思いもよらないアクシデントが起きたり奇跡みたいにうまくいったりすることはいつでもありうる、と思っているからだけど、やっぱり、自分の働いている店で見られることはだいたい見た、というような気がしないでもない。

働いているのはドラッグストアだが調剤や薬の詳しい説明は社員に任せていて、バイトが担当するのはもっぱらレジ業務と品出しだからやっていること自体はコンビニとほとんど変わらない。登録販売士の勉強をしたり社員権限の仕事をもう少し請け負えるように打診したり、できることはいろいろあるのだと思う。いまに不満があるのなら、するりと現状の皮を脱して新しい海に飛びこむか、いまその場所にあるものについてもっともっと目を凝らしてみなければならない。どちらにせよ、バイトだるいぜ、とぼそぼそ言っているだけでは、はじまらない。

『季節の記憶』の記憶は働いているときにはまったく思い返していなかったが、いま思えば、やめてやるやめてやると脳内で繰り返しながらカロリーメイトの在庫を出していたあの時間にも、「止まっているものをちゃんと見る」保坂和志の文章が響いていたに違いない。誰かと誰かがかかわり、なにか自分にできることをしながら言葉をかわしていく営みを「生活」と呼ぶのならば、どんな生活にも切実な思いがあり、心が揺れる出来事があり、そこに小説がある。もう長いことこのバイトを続けてきたはずのわたしは、近頃どうしてか、お客さんの高圧的な態度や無視や理不尽な怒りに前よりもずっと我慢が効かなくなってきはじめている。そしてそれを恐れながら来る人来る人を見つめてしまっていることに気づいたとき、こんなふうに見ていてはいけないんじゃないかと思った。誰かの理不尽にストレスを覚えるだけならまだしも、他者とかかわることに強い猜疑心からスタートしてしまう姿勢が自分のなかで育ちつつあることがつらかった。(もともと警戒心が強い方ではあるのだけど) 仕事から退勤した後のサラリーマンだったり時間に余裕がない方々だったりが多い駅前の店だからそうなのかもしれないけど、ドラッグストアの店員をセミセルフレジのようにしか見ていない人もけっこういる。わたしは光のほうを向いていたい。目の前にいる誰かに、当たり前に敬意を払って生きられる場所にいたい。

逆に勤続年数がバイトのなかでも長くなってきたことで、些細なミスや、同僚へ自分が迷惑をかけてしまうこと、同僚が困っているときに助けられないことへの申し訳なさがどんどんふくれあがってきてもいる。職場の方々はみんな好きだし、ドラッグストアという場所もたぶんけっこう好きだ。手際よくレジを打つことも愛想よく接客するのも楽しいから、自分がこの仕事に向いていないとは思わないけれど、どうしても手が届かない箇所のようにときどきミスをするのを避けられない。働くほどミスの判定が大きくなってきているという理由もたぶんあるのだろうけど。

暗い話になってしまった。悩んでいます。