日曜日のバイトは余裕があって、働きながらたくさん余計なことを考えていられるのが嬉しい。今日は、ちょうど家を出たころに雨が降り出したこともあり、夕方の客足も珍しくかなり少なかった。
マンションの室を出ると遠く近くに見える街がわずかにけぶっていて、音はなく、人の姿もひとりふたりくらいしか見えなかった。傘は持っていなかった。灰色の雲がたなびきながら少しずつその姿を濃く厚くしはじめていたが、西の空はまだ明るく、空気は澄んでいた。それが、バイト先まで歩く道中でみるみる雨足を強くして、駅前に着くころには玉のような雨が周囲にも頭上の傘にもバラバラバラという音を立てて降り注ぎ、決して暗いわけではなかったが空気に薄く影がさした。
わたしは、室から一階まで階段を降りる途中、くるくる回る視界では目を凝らしてもうまく捉えられない細かい雨の姿を、身体がマンション側にではなく外のほうに向かうたび見定めようとしながら、堀江敏幸『雪沼とその周辺』の「イラクサの庭」の冒頭にある忘れがたいあの雨の描写を、また思いだしていた。
きっちり閉じられていても外のけしきをやわらかく伝えてくるガラスの引き戸のむこうに、かすかな雨の音が聞こえていた。粒子の細かい霧が自身の重みに耐えきれず下へ下へと落ちてくるうちにいつのまにか水の柱をつくり、それが完全なかたちとなるまえに雪まじりの土を打ってはじける春先の雨は、土地の者ならだれでも聞き分けることができるものだが、その日の音はいつにもまして静かだった。ただ、ときおり、水を湿らせた真綿が落ちるみたいに、ぴしゃ、ぴしゃっと大きな水音が響いて、そこだけ妙に重く鮮明な音像を結んだ。
小さなきっかけそれ自身の重みで予期せず語り落とされてはじまる何かが、偶然に言葉の形をとり、小説として連なりはじめる手前で終わる、堀江敏幸の短篇そのもののようにだんだん思えてしまう。もっとも、今日の雨は「自身の重みに耐えきれず」というような形ではなく、もっと積極的に、重力によって降下する以上の勢いと速さで雨の音を響かせようとする主体的なものだったような気がしているが、外の景色がひらけたときの明るさの印象があったためか、雨の日がふつうまとうような暗さや行く手を阻むような重さを感じなかった。
バイト先の同僚にいつもより話しかけたのは、雨のなかを歩くのが気持ちよかったからかもしれない。
ばんそうこうやマキノンなどの棚をメンテナンスしているとき、防水ばんそうこうのパッケージに「ヤバイ菌」という文字が見えて、なにこれ、と思ってよく見たら「水やバイ菌を防ぐ」と書いてあった。確かにヤバい菌は防いでもらわないと困る。