8:30からの『パスト ライブス/再会』を観に行く。土曜日のこの時間に家を出ることは、大学に入ってからはほとんどバイトが朝に入っているときくらいしかなくて、むしろ高校の吹奏楽部の休日練を思いだした。いまだったら間に合う時間だなと思いながら、そのときとは違う電車に乗り、違う駅で降りる。朝に映画を観に行くのはとても好き。映画館にお客さんはちらほら。
(この日記はたぶん『パスト ライブス』のネタバレを含みます。)
なにかを得たと感じるよりも、なにかを失ったと感じることのほうが難しい。そう感じようとする自分自身に、そのなにかはもうないのだから。野心や好奇心をもってなにかを勝ち得ようとする日々でも、または平凡に過ごしている日々のなかでさえも、わたしの人生は別のたくさんの人生と別れ、また出会ってもいて、その大半には誰も気づかない。気づかないまま、今世では二度と会うことがない。だからこそ、「さようなら」と言うべきときにきちんと「さようなら」が言えるということは、とても貴重なことなのだと思う。
『パスト ライブス』、ラストシーンでちょっと泣いちゃった。同時に、アーサーにもノラ自身にとっても決して触れることのできなかったナヨンに触れることができたシーンでもあるように思えて、複雑な気持ちではあっただろうけどアーサーもどこか安堵したんじゃないかなと思う。
自分の人生は自分によって作られるものではない。偶然の出会いが自分の人生を変え、「自分」という言葉の意味さえ変えていく。その運命を受けとめなければ、訪れる大切な出会いの喜びも別れの痛みも実感できない。前日に先輩ととあるタイム・スリップ系映画の話をしていて、わたしは観ていないからあえて名前は書かないけれど、たぶん「タイム・スリップで時間を戻して、そうだったはずの自分になる」みたいな話だと思う。(違ったらすみません。)しかしタイム・スリップの技術や想像力がどんなに最先端なものだとしても、その筋書きが要請する「自分」とはすごく古い主体観に基づいたものなのではないか。「こうすればこうなるはず」というふうに人生はぜったい進まない。それは悲しいことかもしれないけれど、悲しみを否認するのではなく受けとめられたなら、そこから人生はまた、新しく始まっていくのだと思う。