髪が伸びてきた。こうして日記を書くためにしずネットが表示されたスマホに向き合っているとき、あるいはその前にプルースト『失われた時を求めて』の2巻を久しぶりに取り出してリビングの椅子に座って読んでいるとき、眼鏡のつるである程度は抑えつけられているはずのもみあげが頬に触れるのが気になって、何度も耳にかけては失敗する。早いところ切りに行かなければならないが、正直面倒くさい。
容姿を気にかけることへの熱意は人生を通じてずっと低かったと言っていい。今日も、しっかり話すのはほぼはじめての友人とご飯を食べるために家を出てきた瞬間に、自分の髪がほとんど起きてきたままの状態であること、ふだんならマスクに隠れて見えないはずの髭を一切剃っていないことなどが一気に思い出され、自分はこんなにも意識が低い、と思い知るようだった。服装もふだんとまったく変わらない、というかレパートリーがそれしかないので不変であらざるをえない。それはもはや単一の制服なのであって、レパートリーという言葉を使えるのかどうかさえ微妙なところだ。とはいえそれはわたしおよびわたしがこれから体験することになる一日の予定をないがしろにしているというわけでは全然なくて、友人と会うのも、そのあと卒業式で先輩方に会うのも、同期の作った映画を観に行くのも、数日前から意識しては若干の緊張をしているのだから、そこで作られるその日への「気持ち」のなかに、自分の見た目への思考が全然入っていない、ということなのだと思う。
新しい友人とのお茶、卒業式、映像制作実習の楽日、わたしが今日向かった場所はどこでもハレの日の雰囲気に満ちていたし、わたし自身もふわふわした気持ちでいた。帰宅が遅くなった、ということもなかったのだが、電車に揺られて帰る途中、いま自分は案外疲れているかもしれない、と発見した。疲労困憊の人の状態を指してサ終(サービス終了)という単語を行き交わせた時間が思いだされる。それを日中のわたしは単にソーシャルゲームアプリなどの文脈だけで考えていたが、自己を他者にひらいていくだけの気力や体力がないとき、それを「サービス」終了、と表現することはわりにうまい言い回しかもしれない。もっともサービスや貢献といった単語ですぐに思い浮かぶ、自己を捨てたりこびへつらったりしてまで取るようなコミュニケーションを言いたいわけではなくて、自分をどの程度他者や集団や場所に差しだしていけるかという度合にはいつも揺らぎがあり、ほとんど閉じてありたいときも誰かと騒ぎたいときもそれぞれある、ということが言いたい。みなさんお疲れの様子であった。この夜がそれぞれにとってすこしでも安寧なものであることをただ祈るばかりだ。わたしもふくめ、今日会ったみなさんがそれぞれゆっくり休めたらいい。人生はソシャゲとは違って、いくらメンテナンス期間があっても、それがいくら突発的でも、いくら長くても、どんなに些細な調整だったとしても、だれにも怒る理由はないのだから。
鏡で見ると、もみあげは思ったより短かった。