2025/11/27

atoraku
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公開:2025/11/28

水曜日。LA業務のあと講師の先生方や修士の先輩とおしゃべりする。最近の子たち、というのは教授陣から見たら学部生あたりのことなんだろう人たちの特徴について話していて、オールドスタイルな「教養」観が合わない(サルトルやカミュも名前さえ知られていない)、たとえ話の世代感がわからない(ドラゴンボール、サッカー選手のジダン)、悪く言えば主観的だけどオリジナリティがあるみたいなコメントシートが少なくてやたらよくまとまっている、みたいな話をしていた。まあそうだろうな、と思う。

もともと分析って、自己矛盾を生み出すものというか、自分では気づいていなかったりおぞましく思えたりするけれど自分の欲望を規定してしまっているもの、があるとして、それに向き合うためのものだって言われるけど、最近すごい多いのは、そういうものがいくら話しても見えてこないっていうパターンが多いっていうか。でもそれって分析がやることなのかな、果たして分析が必要なのかなみたいにも思うし。ある種自他の境界はちゃんとしてるんだろうなって思うんだけど。

ラカンの研究をされている方が話したのが本当にこんな感じだったか、用語や概念はたぶんもっときっぱりしたものがあったはずだし、わたしはそれをうまく拾えていなかったり誤解したりしていると思うのだが、なんとなくそういうようなことを言っていた。「いや、話していてべつに出来事らしいものや動機らしいものはないわけではないんだけど、本当にそれって問題なのかなと思うことが多い」というようなことを言っていたような覚えがあるから、たぶん、語る事象のそれっぽさと実際のその人自身とがなんとなくしっくりこず、かつその齟齬がどこから来ているのか掴めないという二重の腑に落ちなさみたいなことなのかなと思う。「分析主体って分析に対してやる気があることが前提だから、精神分析を必要とはしていない人に"押しかけ分析"することはできないっていうか、それは分析じゃなくて」

そうしなければ生きていけないからこそ分析や文学や思想が必要になるというのが従来それらを肯定するために用いられてきた回路だったとして、必要なしに生きられるように思える人々が増加しているように思えることが話の問題点なのかな、と聞きながらぼんやり思う。べつの教授はそれを、授業しているときの実感に置き換えて「文学とか哲学とかに興味ないっていう人にどう興味を持ってもらうかが難しい」と返していた。わたしはどこかで聞いたような言葉を使って「教授がよくわからないことを言いつづけるみたいな、できごとっていうかショックみたいなゴツゴツしたものが、大学には残されていてほしいなと感じます」と返すよりほかなかった。通俗的な話に置き換えてその特異性を均してしまうこともなく、かといってアカデミックな制度批判の内側で自閉するようなこともない、ある種の〈距離〉がそこにあったら、「面白いものを聞く」じゃなくて「聞いているものを面白いと思うたましい」が作られていくんじゃないかなって、興味があるだろうことを聞かせるんじゃなくて、聞くうちに興味が生じてくるみたいな。言いながら、向こう一か月は福尾の語彙を織り交ぜてでしか話せないだろうなと思いつつ、その後も、要は「言語化/考察」文化の是非とか「理論」の退潮とかとまとめてもいい話が続いたりして、あの本の圏域にある話題がきちんと話題にのぼるものだと妙な感心を覚えていた。

火曜日。所属している研究室の主任はプルーストが専門で、プルーストを原文で読むという授業が変わらず淡々と進む。小説を読むときいつもわたしの頭をもたげる、「形式/内容」というあらゆる芸術作品につきものの便宜的な区別は、分析的な読みを即座に起動させたがるわたしの悪いくせにつながっているのだが、プルーストはその点、あまりに長大すぎるゆえにいちいちの文章の大局的な働き方とかを考えていてもしょうがないので対立自体がキャンセルされていい。つまり、目の前にある文章をそのまま読むということだ。たとえば短篇小説においては構成の緊密さや文章同士の相互作用が「文の機能」という問題系を提起し、それが適切に機能しているか、その働き方が内容にどう跳ねかえっているのか、はたまた独自の体系を形成したり既存のそれから逸脱したりしているのかというようなことが問われる一方、もはやその日思い浮かんだことを思い浮かんだまま書いただろみたいな社会や一般的事象に対する考察(「というのも○○とは✕✕なものであって……」)や、一音楽家や美術家に対して、あるいは現実には存在しない彼らの作品に対してえんえんとなされる一貫しているのかどうか容易に判別できない長大な論評などをふくんで繁茂を重ねるプルーストのテクストには、こちらにもまた「たんなる感想」を言わせたくなる力がある。もちろん、別々の箇所に残された同一テーマについての話を、照応関係を調べ一貫性を発見することで「論」のレベルにまで引き上げた研究論文だって枚挙にいとまなく存在するわけで、それがナンセンスだとはまったく思わないが、だからといってそこにまじめ/不純な読みという優劣の関係が引かれうるわけではない。メタな問いよりベタな感想のほうが強くなること。プルーストはなにを考えてこの文章をここに置いたのだろうという問いに倦んで、ここでプルーストが言ってることなんかわかるな/ピンとこないなという感想の連続になること。ぜんぜん読んでないわたしが言うからこそ説得力があるかもしれないと棚に上げて言うのだが、プルーストを読むことはそういう意味でめちゃくちゃ退屈な時間も含む。ちょうどそれは、どこかに繋がったり回収されたりせずべたっとつづく日々の退屈さと同じだ。でもその圧倒的なベタの強さはポジティブなことでもあるのかと火曜日にふと思った。ちなみに日々が続くことでベタもメタも書けてしまえるという強さは『ひとごと』に収められている滝口悠生『長い一日』についてのエッセイに書いてあり、その意味でわたしは、またしても福尾が日記に賭けたポジティビティを自らの身体で再発見しただけなのかもしれない。

とはいえ授業を終えてしばらくし、なによりそのことについて思い当たったのは『迂闊 in progress 『プルーストを読む生活』を読む生活』のことだった。そして嬉しくなった。わたしは、この本を読むたび思い返すたびどこか元気になる。それはやっぱり、生活とプルーストにとどまらず、映画やドラマや町屋良平(!)やラノベetc…に脱線しながら日々に刻まれていく横断線が、「プルーストを読むってこういうこと」「読書日記ってこういうもの」という垂直的な予断からとびきり自由で楽しいものだからだと思う。

文章を読んで正解のある「著者の言いたいこと」を選択させる日本の国語教育を受けてくると、読むという行為はひとつの正解を緻密に読みとるだけの作業になってしまいがちだ。かくいうわたしもいまだにそういう傾向は抜けず、「著者の言いたいこと」を探してしまう瞬間がすくなからずある。すくなくとももう国語のテストを受けることもないわたしは、もっとのびやかに読書をしていいのだ。プルーストを読むのはその読書の練習の一環でもあるのかもしれなくて、本を読んで自分に起こった変化の記録もしくは『失われた時を求めて』という小説自体の変容を記録しているのだった。(中略)読むひとの数だけデフォルメがあり、想起があり、脱線がある。読書は、「本を読むなんて真面目だね」と言われるような規律的なものではなく、もっと枝葉を好き勝手伸ばした愉快なものである。本をあまり読まないひとに読書のヘンテコな愉悦を伝えるにはどうしたらいいのか、よく悩みこんでしまう(だってこういう読書の良さを伝える文章だって「読書」によってしか伝わってはくれないから)。 (pp.419-420)

メタをいったん不問にするような強いベタの良さは、「日々とはこんなもの」「小説とはこんなもの」という先入観から逸れた愉快でヘンテコな驚きに自らを導いていくことにある。自分自身とともに読んでいるものもその姿を変容させてしまうような遊び=練習のなかに日々が放りこまれたならば、退屈さ/面白さの意味もまた変わっていくだろう。「どうして勉強しなきゃいけないの?」というよくある質問の「勉強すればわかる」というよくある回答は、答えをもとめる子どものもやもやを解消するものではないし(むしろ強めるかもしれない)、万人がしなければならないものなんてないが、なにかの間違いでそれに出会ってしまった人間にとって、その回答は自分なりの面白さを見つけていくための強い励ましの声としてひびくかもしれない。先生たちのよくわからない話を聞いているうちになにかの間違いで修士にまで来てしまったわたしは、『迂闊 in progress』の励ましの声によってなんども元気になる。問うより先、気づいたときにははじまっているような迂闊さが連れてくる自由とたのしさに打たれながら。