2024/06/12

atoraku
·

母親が先週、このドラマほんっと面白くなくなっちゃった、最初はよかったのに、と語っていたドラマを、今週もつけていた。チャンネルを変えた痕跡もなく(わたしが気づかず)シームレスに話がはじまり、はじまってから○○時であることを知る、という自然さだった。切実さに欠けるんだよね、と先週の母はつまらなさの理由を語っていたのだが、面白くないとわかっているドラマをそれでもつけ続けるのは一体なぜなのか。

母の見方は、わたしやこのページを見る(可能性のある)わたしの友人やブルースカイにいる人たちのようなものではないのかもしれない。というのも、見終わったドラマやテレビ番組に対して母が感想や結論を述べているのをわたしはあまり耳にしたことがない。またどこかにまとめている痕跡もない、すなわち「記録」とかもしてない。聞けばきっと、このドラマがいまいちばん面白い、とか、あのドラマは面白かった、とか返ってくるのだろうけど、自ずからは引き出されないかつての記憶や感情の色は、ふだんはいったいどこにあるのか。

母は『相棒』シリーズや『科捜研の女』シリーズなどを通常放送と特番と昼下がりの再放送で日夜見続けている。たぶんそうしない日は一年でも数日しかない。とすると、もしかしたら母はその記憶を、それを見ている時間のなかで存在させ続けていて、だから「テレビを見る」という行為がわたしが考えるようなあり方よりもっと生に癒着した形としてあるのかもしれない。

とはいえ、かじりついて見ているわけでもないのだ。その「面白くない」ドラマの最新回を流しながらも手や足はせっせと家事に向き、水を出したりベランダに出たりもするから音声すら届いていない状態だって少なくはないはずで、「面白くなくても見る、これが自分の生き方だから」というふうに書いてしまえばすこしは帯びるはずの使命感もまったく感じない。つまらなさとか不満を感じている最中は一応苦い顔をしているのだが。書きながら思いだした別のドラマのことで、わたしは一切見ていないからなにも知らないのだが、世評があまり芳しくなくうちの母も同感だったようで、それが放映されていた時期、母は苦笑しつつ「この筋/人物/設定がおかしい!」みたいな不平を毎週のように家族に零していたのだが(父はテレビを見ず、妹は部活で忙しいのでその相手は大概わたしなのだが)、それでも決してチャンネルを変えたりテレビを消したりしなかった。なんじゃそれ、と言いながら最後まで見る。

保坂和志『カンバセイション・ピース』には横浜ベイスターズを応援するファンの姿が描かれているが、彼らもまた監督の采配や選手たちや試合展開にいろいろな不平や野次を好き勝手に飛ばしつつ日々ハマスタに通うことになっていて(保坂の小説ではこの「○○することになっていて」という文章が多用されているのだがこの用法を保坂の小説以外で見たことがない)、どんなに弱くてもどんなに監督が嫌いでもハマスタに通うのをやめないだろう。

母も野球ファンも、面白かったり心を動かされたりするのに越したことはないにしても、長らくそれを生活の一部にしているということは、退屈な回や試合こそを自分なりに楽しむ術を心得ているのだと思う。不満をグチグチ言っている最中に愉快なわけはないと思うが、不満を言うときのある種の生き生きした感じは「良作」を語るときなんかより全然強い。だいたい母親は「ふつうの回」「いい回」を観たあとになにか言うことはあまりなくて、「感動した回」と「妙な回」を語る。「クソ○○だった」という声は、わたしのなかでは、母のものであれ友人たちのものであれ、高校時代の朝練のときに先輩方が話しているのが聞こえたときの記憶であれどこかきらきらしている。ほとんど「だった!」とびっくりマークつきで。

保坂の小説でしか見たことのない「○○することになっていて」という文章は、誰もそうしろと取り決めたりはしてないのに自ずからほとんど決まりごととして定着してしまった日々の営為とか、その内側に流れている(無?)時間のあり方をわたしに見せてくれた。そうすることになっているという文章が小説のなかで奇異に響くのは、もはや無意識的にしている習慣やしぐさが、わざわざ書かれることによってト書き感というか指示書感が出るというか、芝居めいた行動に近いものとして読めてしまう錯誤感に基づくのではないか。というか、小説なんだからすべての動きは「〇〇することになっている」のはずで、そんななかそれを残しているのはリアルなのかそうじゃないのかわからず絶妙に変だ。しかしそのように小説それ自体をメタ化してしまうのではないやり方でこの文章を考えると、保坂が「○○することになっている」というふうに書くのは、人間がいかに主体的「ではなく」行動しているか、習慣や周囲の環境やその時間や季節や、とにかく「外」にいかに規定されているのか、ということを呈示するため、というよりそういう世界観で小説が書かれているからだと思う。小説-登場人物という審級が(実際の体感としては存在しないとしても)一応想定しうるのと同じで、人間もメタ的に行動をある程度規定されている。というか、小説の作者だって、小説の運動性(○○と書くことになっている)に従わなければならないのであって、人間と環境、作者と登場人物はお互いにお互いを規定しあったりひっぱったりしている。(当たり前だけど。)だから、「○○することになっていて、」という表現の奇妙さの正体は、能→受と続けざまに混淆することで生じる中動態っぽさかもしれない。

パートがある日はパートから、そうでない日は買い物やヨガから帰ってきた母は毎日お昼の二時か三時くらいになると『相棒』や『科捜研の女』や『古畑任三郎』シリーズといった警察/推理もの、あるいは『ドクターX』や『救命病棟』シリーズなどの医療ものといった、主にテレ朝系の番組を再放送で見ることになっている。