2024/06/03-04

atoraku
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公開:2024/6/5

夜更かし癖が取れない。YouTubeで動画をえんえんと見続ける夜の謎の数時間のせいで、4日は一日中寝不足を引きずっていた。3日の月曜日は連日のバイト疲れが出たのか13時くらいまで寝ていて4限に寝坊するという異常事態で、さすがにそこまで起きられないと罪悪感すら湧かない。さっぱりした気持ちで母に「今日は、無理!」と言うと、いつもはわたしのサボり癖を心配というか憂慮する母もかえって「そういうものか」みたいな感じで「ああ、そう」と返した。「一時間後には教室にいなければ」とか「いまみんなは講義を受けているんだな」というような、朝起きた瞬間からじりじりと「授業」が心にもたらす迫力が全部すっとばされてしまい、自分が大学に通う大学生であるということを忘れてしまう。とはいえ、院試の出願のために研究計画書を書かなきゃいけなくて、手元に文献が全然なかったから図書館へ行った。休んだ日に学校に行くのは、一番しんどかった高校のときの、放課後に部活だけ行く日みたいな負担で胸がつぶれてしまうのだが、あまりそういうことを考えなかったのは「研究計画書書かなきゃ」という事態が余計なことを考えさせないくらい差し迫っていたからなのか。決定的な事態が迫れば迫るほど逃避と罪悪感のループに深くはまりこむ場合と、かえってすんっ、と冷静になる場合があって、今回は後者だったということか。それでも書くこと自体は苦痛で、もっと勉強しておけばよかった、胸を張って院に行きたいですといえるくらいになっておくべきだった、とは思いつつも、まだ知らないことについて計画を立てるというのはやっぱりおかしい。「研究とはこういう姿勢であるべきなんだ」ということを自分なりに明確化しておくことは重要に違いないけど、具体的になにもしないでそればかり言ってると頭がどんどん「でっかち」になる。実質が伴っていない陳腐なものになるべくならないように、すでに「文字」として存在している先行研究の整理に字数を割くようにしたらなんとかなった。引用は力だ、とつくづく思う。書き進めていた図書館の席は窓際だった。18時台くらいまではまだ明るくて驚いた。夕方から降りはじめた雨は一気に土砂降りになり、空模様は暗くなるにつれてだんだん雷を伴った。

火曜日。濱口竜介監督×石橋英子『悪は存在しない』をやっと観に行った。そこそこ映画を観に行くようになったいまも「映画鑑賞」が趣味だといえるほどは観ていない。しかし少なくとも大学以前よりは「映画」という文化を知りつつある。いま思えばそのきっかけは『ドライブ・マイ・カー』にあった。その意味でわたしはたぶん映画ファンというより濱口ファンであり、それもだいぶニュービーの濱口ファンである。そんなわたしが公開されてしばらくアクソン(『悪は存在しない』)を観ていなかったのには、忙しかったからとかほかに観たい映画があったからとか先に『GIFT』を観ていたからとかいろいろな理由があるのだろうけど、期待するがゆえにこわがっていたということもあるかもしれない。いざチケットをとり、予告編からはじまる上映を席に座って待ち構えてみれば、濱口竜介の新作が観られるというのに自分はなぜあわよくばスルーしかけていたのか、と不思議に思った。相当な話題作だからしばらく演ることもわかっているだけに、まあいつでもいいかと思っていたのかもしれない。それが睡眠時間4時間の日にあたるとは思っていなかったけれど。(そうしたのは自分だけど)

で本編の感想だが、前述のとおりわたしは濱口ファンなので手放しで「観られて良かったなあ…」と思うのに尽きるのだが、濱口竜介を観たことがない、という人に勧めたい作品ではないように思った。というかちょっと異色作なのでは? どうなんだろう。この辺りは観た人といろいろ語りたい。

異色だと思う理由はなんといってもその映像詩的な作りと言葉数の少なさ。濱口作品といえば言葉、ダイアローグの豊かさだと思っているし、監督自身、藝大所属時から自覚的にしゃべりまくる作品を作ったとどこかのインタビューで読んだ気がする。その分、映像を観、物音や音楽を聴く喜びがすごい。(これは本作というよりはじめて『GIFT』を観たときの興奮が色濃かった。)ゴダールのような青と赤字によるタイトル提示とぶつ切りの音楽、ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』を思わせる寡黙さとイメージによって繋ぐ映像、ラストシーンの『ノスタルジア』的な広大さなど、引き出しと挑戦の過激さも楽しかった。たぶんわたしが拾えてないほかの遊び心もたくさんある。

しかし自分がなによりぐっときたのは黛と高橋の車内の会話シーンで、だから自分はめちゃくちゃ言葉主軸で映画を観ているらしい。頭でっかち。あの車内シーンの良さは『偶然と想像』第一話とかの喋りに喋りまくる作品に連なる濱口作品お決まりのやつで、人間の底の浅さや薄っぺらさと謎の愛おしさがリアルに迫ってくる。東京の事務所のZOOM会議もそうだけど、都会で生きる人間のイヤな感じを描くのがめちゃくちゃ巧い。同時に現場にいる人間が自分と同じ存在であることを突き付けられる、人間にそういう言葉遣いをさせる「システム」が底深く見えてくる。サイレント×生演奏で上演される『GIFT』は、人物よりも音楽や物語自体が映画を主導しており、全篇にたぎる緊張感と人間を撥ね退ける摂理のようなものを強く感じたが、『悪は存在しない』では人を映すがゆえの抜けや愚かしさが映画に緩急をつけていて、「厚み」が出ている部分が両作でぜんぜん違った。うどん屋のシーンの、高橋の「おれ、ここなのかもなあって思って」っていう台詞(を書くの)、めちゃくちゃ性格悪い。しかし巧いのは同じように「ここかもしれない」と思ったであろううどん屋さん(『ハッピーアワー』のふたり。嬉しい。)でその言葉が語られるという構造になっているということで、巧も開拓三世であるということ(「みんなよそ者なんだ」)。しかしやっぱり全然違う。彼らは、高橋のように自らの生の必然性をそこに見出そうとはしない。自然や暮らしからなにかを頂戴しているだけで、その感覚を絶対化しないし、それらを我有化しない。(あと性格が悪いなと思ったのは説明会の場面の、その村における水の本質性を語る住民の前で高橋が「天然水」みたいなペットボトルの水を飲むところで、わたしもドリンクホルダーに「熊野古道の水」みたいなものを構えながら映画を観ていたのでめちゃくちゃ恥ずかしかった)

暮らしに理由はない。彼らはただ生きているだけであり、同時に死ぬときは死ぬ。もたらされる恵みと災厄をただ受けとめるしかないわたしたちは、「悪」を定位できない。そんなものよりずっと強大ななにかの前では、人間の都合など通用しない。

……でも、わたしはそういう愚かで夢見がちで生きる意味とか都合とかを虚実を越えて自ずから作り出してしまう人間の劇がたぶん好きで、だから『悪は存在しない』は傑作だと思うけど『ドライブ』とか『ハッピーアワー』とか『偶然と想像』のほうがいまは好きだ。すべて忘れられない体験だったから、幸福なランク付けだけれど! そして、人間と生活と自然とがいくら無理なことだとはいえなんとか「バランス」を保ちながらあろうとしている、という事実に無関係であるかのような顔をして駆動しつづける現況の資本主義は、人間の都合こそがすべてだと人々に勘違いさせる陳腐で巨大な「悪」だからぶっとばしたい、というのが今回強く思ったことです。