昨日のことを思いかえしてみると、わたしがほんとうに生きていたのは13:30ごろから15時あたりまで過ごしていたあの公園の時間だけだったような気がしてくる。一日経って日記を書こうとしているわたしの心に、そのほかの時間の印象が帰ってくることはあまりない。公園にいたわずかな時間に考えていたことも、読んでいた『ラーメンカレー』のことより、まわりにいた子どもたち、その親とみられる大人たち、なによりよく晴れた春の川沿いの公園の景色に、触発されて飛び飛びになった思いつきばかりだったのだが、それでも胸のうちはつねに感興にあふれていた。石が積まれた花壇のへりに座ったわたしの目の前には、広い公園の平たい緑地から空へ伸びる凧が揺れていて、ときどき大きな鳥のようにバサバサと鳴った。本を読んでいるわたしの意識に、それはときどき降ってきて、その度にわたしは顔を上げて凧を見た。たとえば白いキャンバスを景色に向かって立てて、湧き出る印象を色やタッチによって辿り直そうとしている画家みたいに、さっきまで読んでいた本の言葉は広がる緑のなかをさまよい、小学生のころの長い休日の時間にさえ滲んでいくようなゆっくりした時間の感覚のなかに溶けていった。
ハトってね、かわいそうな生き物なんだよ、と、近くにいた子が背後から言う。表情は見えない。どうして? 一緒にいた子が自転車を止めて、とっても不思議、といった感じでそう聞く。だってね、ハトはね、酔っぱらいの人が吐いたのをね、食べなきゃいけないんだよ、とその子は言った。わたしね、さっきもそうしてるの見たもん。その子はそんなハトに並ならぬ関心があるのか、なんとしてもハトに触りたいと言い、ハトをいろんな方法で追いかけてみたり飛びつける隙を伺ってみたり、ついには、みてみて、ハトの歩き方! と言ってハトを真似しはじめた。なんで触らなきゃいけないのー、ともう一人の子が聞いたが、なんとしてもなの、と女の子はかたくなだ。
ほんとうにハトが酔っぱらいのゲロをつついていたのか、その子はほんとうにそれを見たのかわたしにはわからないし、ハト触らないほうがいいよと言いたくて緊張してしまったのだが、公園にいるハトはじゅうぶん人に慣れていてそう簡単に触れるはずもなく、すぐにどこかへ飛んでいってふたりは別のことに興味を持ち出した。