イヤホンから発される電子音の上の方で、ぽーっと音がしていた。不快になることはないような、固定化された一定の音。電車内でのことだったから何か車両に不調が起こっているのかと思い、そっと周りの人間の様子を伺う。しかし、そこでは何事もなかったように時間が流れていた。
談話する男子学生。本を読む神経質そうな女。一様にスマホを触っているスーツ。変わらない光景に目を伏せる。
たぶん耳鳴りなんだろうな。耳に触れると、ジクンと痛みが走った。それと共に音は消えて、なんだかわからない焦燥が残る。とりあえずイヤホンは外して、ぼんやりと外を眺めていた。窓の外はもう薄暗く、冬の訪れを示している。よく行く駅横のドラッグストアが、いつもと違う顔で見えた。
「うわ」
アパートのドアを開けて、ただいまも言わずに洗面所へ向かう。冷たさがユニットバスのタイルから靴下を突き抜けて、水滴みたいだった。水垢だらけの鏡の中に耳を映してみると、そこにあるはずのものがないことに気づいた。
夏あたりに、ピアッサーで開けた軟骨のピアスが埋まってしまっていた。
ぽこんと丸い形に皮が浮いていて、肉芽みたいに見えた。でも肉芽ならピアスの、シルバーのヘッドが見えているはずだし。そろ、と触れてみるとごりごりして。
おそらく埋まってしまったのだろうな、と現実に思考が追いついてくる。原因に心当たりもある。最近、なんとなくでゲージの違うものをつけてしまったから。後悔先に立たずとはこのことだ。ていうか、ピアスって埋まるんだ。本当に。取り返しのつかない現象をまじまじと覗き込む。どくどくと、鼓動が早まる。
Googleの検索履歴がピアスで埋まっていく。緊張と焦りで高まった鼓動が耳の先まで震わせて、耳介から飛び出た痛みが耳の中へ。それが脳の中心でギンギン騒ぐ。また、ぽーっと間抜けな音がしてきた。どうやら取ったほうがいいことは確からしい。病院に行くべきだと書いてあるのは、クリニックのQ&Aばかりだったからあまり気にしなくてもいいだろう。時間を取るのも面倒だし、ピアス関連で耳鼻科に行くのは負けた気がする。
耳周りの髪の毛をそのへんのピンで留めた。ふ、と息を吐いて耳に添えた手に力を入れる。そっと押してみても、どうにもならなかった。ホールの中でぐりぐりとヘッドが動き回って、皮膚を貫通せずに足掻く。
そもそも、これどっちに押す?前に向かって?後ろに押し込むの?流石に前……?
ごりりと骨の中を暴れるヘッドと、ぐるぐると回っていく思考。マイクに金属を近づけたときのような耳鳴りがして、視界が回る。キンキンした音が脳の中を引っ掻いていた。太ももに触れたタイルの冷たさと、内部から現れる痛みへの快楽に近い感情。怖気が背骨を登って、首の辺りにまとわりつく。
風邪を引いたときのような、形容しがたい悪寒に甘さが内包されている。はく、と口からひとつため息が出た。ずくずくと心臓がわめいて、焦りを増長させていく。
でも、なんとかしないと。
ふらつく脚で立ち上がって、再び鏡に向き合った。その中の自分は涙目で、下り眉で。ひどく頼りない。こんなはずじゃなかったんだけどな。
耳鳴りの中格闘して、ヘッドが穴だった位置に戻る。後は押し出すだけになった。ポストを押し込みすぎて親指には痕が残っている。痛痒さを人差し指で擦って誤魔化して、再び耳介に手を当てた。歯の間から息を吸って。
ブヅ、と、銀色が、見える。内側から皮が捲れるように、再び穴が空いた。全てを押し込みきって、くすんだ洗面ボウルにピアスが落ちる。
カツ、と硬い音がした。
換気のための窓から西日が義務みたいに差していて、乾いて冷たいにおいのする空間のなかで、ひとつ、場違いだった。
ゆらゆらと、洗面ボウルのRをピアスが下る。痛みが脳の中で暴れて、奥歯が唾液に浸る。じゅわじゅわと喉に吐き気が蔓延して、トイレに顔を突っ込んだ。粘度のある音が、水に落ちていく。胃酸で咽せて、苦しくて、顔もべちゃべちゃになった。吐ききった後にトイレットペーパーで鼻をかんだ。ガサガサとしていて、とても痛かった。それも一緒に、水に流す。ぼんやりとした頭で、痛みで吐くっていうのは本当なんだなと、どこか他人事のように考えていた。
あどまいや
夜のスーパーの不健康な灯りが好きだ。ビカビカしていて、光っているのにどこか暗くて。ひんやりとした店内で、カートを押す。車輪が歪んでいるのか、つるつるとした床の上なのにがたがたとゆれていた。
吐いたからか、お腹がぺこぺこだった。惣菜コーナーはお祭りのあとみたいにスカスカで。はじに残っていて、どこか後ろめたそうなサラダ巻きだけカゴにいれる。後はおかずとか、おやつとかを買おう。そういえば醤油がなかったっけ。
調味料の棚の対面(といめん)には、たいてい缶詰が置いてある。醤油のボトルを手にしたまま、その面をゆるゆると見つめる。さば缶もいいな。夜ご飯にしようかしら。鯖の味噌煮をひとつカゴに投げると、視線の先には黒が見えた。
ひじきだ。海藻の、家ではよく出ていたアレ。本当は乾燥したのを水に戻すのだと、料理ができる友人に聞いて知った。まあ、缶詰の方がかんたんだろうし。母はあまり料理が得意ではなかった。久しぶりに食べたくなって、カゴへ。水煮の大豆も買おうとしたら、再び黒。
小さいタイヤのようなそれは、ピザの上でしか見ない代物。ブラックオリーブだ。気になって手に取ると水の中でふゆふゆと揺れる。あまり売れていないようで、パッケージの上には若干の埃がつもっていた。食品なのにいいのかな?そのまま戻すのも忍びなくて、それを払ってから棚に上げる。結局、水煮の大豆は缶詰の方が安かった。缶を捨てる手間はあるが、安い方がいい。でもおやつは買ってしまう。一人暮らしの貧乏大学生の典型をなぞっていた。オリジナルブランドお煎餅とポテチでエコバッグがふくらんで、小学校の給食着のようにぽすぽふと脚に触れる。
カートを戻すときに出入り口に置かれているガチャガチャが目についた。そこには、幼い頃憧れていたキャラのマスコットが。パンクな見た目の、赤と黒を基調としたデザイン。今で言うサブカルっぽさがあって、ああいう見た目の女の子を街で見かけたこともある。幼少期の記憶って、大人になっても染み付いているんだろうか。彼女たちは、同じアニメを見て育ったのだろうか。
お財布を開けると銀色が丁度3枚。通る人の目を気にしつつかしゃかしゃと入れて、ハンドルを回す。色のついたプラスチック越しに見えたのは、ウインクしながらこちらにVサインを向ける彼女。クールなファッションなのに、内面がとても元気で。記憶がふつりと沸き上がって、気体になって、しっとりと心に染み渡っていく。
あの時の憧れと、現在。私にとっての憧れはいつだって二次元だった。あの頃の、AKB絶頂期の最中でさえ、平面の女の子に夢中だった。くるくると元気に動いて、ひたすらに細くて、とてもかわいくて。二次元の中の女の子はみんな可愛くて、その中に序列なんてなかった。少しずつデザインが違って、好みが分かれていることはあったけど。
私が好きになるのはいつだって、細くて、クールな女の子。自分には無いものだったから。クラスの中ではいじられキャラで、太り気味で。愛嬌でなんとかしてきたタイプの女。そんなのは、二次元で脇役としても描かれない。彼女と同じ舞台には絶対に立てなくて、だからこそ憧れだったのかも。
憧れに身を浸して自分を正当化するのが、心を守るための手段だった。周りより可愛くなくて、劣っている自分を正面から見つめるのが怖くて、他の価値観で補填する。勉強ができるだとか、本をたくさん読んでいるだとか。わたしの価値は外面に出ることが少ないから、他のかわいい子より劣って見えていたのかと、距離が離れた今なら言い訳をすることができる。これが正当な理由にならないことも、距離が離れているから解るけれど。
大学生になって、自分が好むような外見になるためにメイクをするようになった。そのおかげで今は息がしやすい。逆に、周囲の人間の視線が気になって呼吸がしにくい日もあるが。私が一番重きを置いているのはやはり外見で、そんなことでしか人を見ることができていない自分に悲しくなりもする。一生、素の自分を認められる日は来ないのだろうか。
サラダ巻きの蓋に醤油を垂らして、キッチンで食べる。さっさとひじきを作ってしまおう。ひじきの作り方を調べて、フライパンを取り出した。ガス火のコンロにはあまり慣れていない。いつか火事を起こしてしまいそうだな、とは思っているけど、まだそれは起こっていないのでよしとしている。何か問題が発生してからでないと、動き出せない。冷蔵庫の隅に眠るしなしなのにんじんと、乾きかけのちくわ。適当に刻んで、順番も気にせずにフライパンの中へ。レシピの上から書いてある順に調味料も入れて、くつくつと煮込む。
煮物の匂いがすると、ぼんやり落ち着いた気持ちになる。特段家で出ていたわけではないけれど、他のご飯のにおいよりもやさしくて、まるい感じがする。くつくつ、ふつふつと気体になったあまいやわらかさが鼻腔をくすぐって、こころをやんわりと包んでくれる。作りたてのひじきの上の方を、ヘラでそのまますくって口に入れた。熱すぎて、全然味がわからなかった。
🌂
大学の友達と遊ぶ約束をしていた日だった。必修の授業が被っていて、たくさん話しかけてくれて、受動的に仲良くなった。誰とも仲良くできるタイプの、明るい子。アナウンサーみたいにかわいくて、乃木坂に紛れていても違和感のないくらい。
彼女のことは好きだけど、2人で会うのは緊張する。そんな距離。私が一方的にそう思っているだけで、向こうの距離はわからない。大学に入ってからこんなことばかりだ。人との距離が掴めない。無意に近づきすぎて怪我をしたくないから、一歩引いてしまう。自己紹介で言う「話しかけてもらえると嬉しいです」は自己保身の甘えだ。近づいて、火傷するのが怖いから。相手にそのリスクを負わせて、自分が傷つかないようにする。
彼女と仲良くなったのが受動的だったから、こんなふうに緊張してしまうのだろう。社会に、何かで縛られて仲良くなることがなくなって、こんなふうな気持ちになる。部活や係といった、その時は不自然だと思っていた仕事があった方が、自然に仲良くなれていた気がする。
[ハチ公前にいるね〜!]
[りょうかい〜]
ごった返す人混みの中で、彼女の姿を探す。渋谷は比較的、人が孤立して生きている気がする。それぞれに目的があって他の方向をむいている。田舎みたいに、同一のショッピングモールに収束するわけではない。それが心地よくて、東京は嫌いではない。都会の空気感は漠然と恐ろしく、それは苦手なのだが。
「わ!」
「あ!わ!」
「へへ、びっくりした?」
「んふ、した。久しぶり〜」
「久しぶりだ〜 げんき?」
「もちろん」
後ろから声をかけられてそちらを向けば、ぴかぴかの笑顔。真っ黒のコートにスカイブルーのマフラーがよく映えていた。髪の毛は緩く巻いてあって、ふわふわと胸の辺りで揺れている。正統派のかわいいだ。
「髪染めた?」
「うん!ちょっと紫っぽい茶色」
「かわいいね〜、めちゃ似合う」
「うれしい!ありがと〜」
大学生らしい茶髪だけど、彼女らしさが十分に溢れていた。服装もシンプルで、けれど彼女がそれとして存在している。わたしみたいに、正統派から外れることで、人とスタートをずらすことで、自分の価値を認めている人間とは違う。わたしの服装は、マスタード色のベロアのキャミワンピ。最近のお気に入りだ。ふくよかな体つきも、てやてやとした輝きで包んでくれる。
「あおちゃん、髪染めないの?」
「ん〜、そのつもりかな。髪染めちゃうとエンドレスじゃない?」
「確かにね」
「お金もかかるしさ」
「そか、あおちゃん一人暮らしだ」
「全然普通に服とかは買っちゃうけどね」
「いいじゃん〜 今日のお洋服もすてき」
「えへ、うれしい」
彼女は人を褒めるのがとても上手だ。まっすぐと、目を見ながらそれを言われるものだから、嬉しくて口元が緩くなる。
絶妙な距離感を保ちながら、雑踏の中をゆらゆらと、マップアプリを見て移動する。どこへ行こうかと探り合うLINEの中で、彼女が提案してくれたカフェだ。人とのLINEで自分の意見を言うのが苦手だ。これもまた、自分が傷つきたくない気持ちの表れなのだろう。
「こっち?」
「、たぶんそう」
「あちがうかも」
工事中の白いフェンスが、ずっと視界に入っていた。夕下がりの太陽がちらちらとこちらの様子をうかがうように伸びていて、鬱陶しい。
「ここ?」
「ここじゃん?」
ひっそりと隠れるように、ビルの間に潜む建物。通りが陰になっているからか、昼なのに看板がぼんやりと光っていた。そこだけ夜みたいに不思議な場所だ。ドアを引くとからからとドアベルが鳴る。コーヒーの香りがわたしたちを包んで、ぐっと引き込んだ。
「春休み、ながいね」
「ね。二ヶ月は持て余しちゃう」
「なにしてた〜?」
ん〜、と言いながら、思考を巡らせているように目線を動かす彼女。パッと顔が明るくなったのちに、少し照れるような顔になって。
「バレンタイン、手作りしたの」
「え!すごい」
小さな液晶を2人で覗き込む。するするとスクロールされる画面。彼女のカメラロールにはゲーム画面のスクショとか、Twitterの画像はひとつもない。風景や、おともだちや、三次元のもの。見せたくないからスクロールが早いのではなく、ただ、見せたいものがどこかわかっているから早いのだ。
「これ〜。めちゃ大変だった」
「あすごい!クッキー缶作ったの?」
「そう!彼氏に……」
「超いいじゃん〜!」
彼女の見せてくれる画面に映るのは、銀の四角に丁寧に詰められた、さまざまなクッキーたち。黒と白の格子だったり、周囲にお砂糖が付いていたり、バラエティも様々。中心には、赤いハートがちょこんと乗っている。すごすぎる。
「最高の彼女じゃん」
「へへ……。自慢したくなっちゃった」
「まじですご……」
ぎゅっと詰まった小さな箱は、彼女の愛と気持ちとが表れなのだろう。しかも、彼女はこれをsnsに載せていないのだ。写真の背景もおそらくキッチンのそのままで、飾り気がない。承認欲求とか、そういうのをのけて、これを彼のためだけに作っている。この現代に。それがとても美しくて、彼女を彼女たらしめているのだろう。人に見せるとしても、少し後ろめたそうにしているところとか。
「お菓子作るの好きなの?」
「うん!それなりにね。でもこれはすごく、とても、大変だった」
「もうお店だもんこれ」
彼女の細い指がつるつると画面をなぞる。華奢なその指には控えめなゴールドのリングがひとつ嵌っていた。
「お待たせいたしました」
店員さん、というよりウェイトレスさんが持ってきてくれた、カフェオレとプリン。彼女は紅茶とシフォンケーキ。喫茶店らしいシルバーのお皿に、レトロな、いわゆるエモいという形容詞に見合うようなプリン。固いプリンはずっと好きだったけど、今のエモみたいな風潮が来てからあまり言えなくなった。そういう安易な言葉遣いをする人と同じ括りになるのは嫌だったから。なんとなく、数枚写真は撮ってしまうけれど。
「いただきます」
「!いただいています」
「おいしい?」
「うん!ふわふわ」
ひと匙プリンに差し込むと、むっとした固さで押し返された。むちむちとした、寸胴のプリン。口に入れるとカラメルの苦さが強くて、甘さがわからなかった。でも、おいしい。おいしい?見た目に騙されているだけかも。
「プリンも作れたりする?」
「うん!でも市販のが美味しい」
「ふふ、なるほどね」
「極めたのはクッキーかな……」
「今回で?」
「そう」
「すごすぎるな……」
伏目がちに彼女の手元を見る。ふわふわに翻弄されているようで、フォークの扱いがおぼつかない。かわいい。ようやく切り分けて、クリームを少しつけて、口に運ぶ。とても美味しそうに食べる。
「あおちゃんは?」
「ん?」
「そういう、色恋とかないんですか?」
にこにこ、うずうずとした様子でこちらを伺う彼女。かわいらしいその仕草も、いまは少し困ってしまう。
本当に、居ない。こういう時に、他の友達なら2次元の推しを見せてうやむやにできるが、彼女にはそういうのは通じなさそうだ。3次元の推しはすぐには出てこない。
「居ないの」
「え〜」
「なんか、恋と憧れがごっちゃになっちゃうの」
ぽろりと飛び出た言葉が、かつんと彼女に当たったみたいだった。特段悩んでいるとか、困っているとかではなかったのに。
「なるほど〜……。年上のが好きになるの?」
「そうね……。大体年上かな」
「そしたら余計に難しくなっちゃうよね」
「うん……」
別に、そういう言葉が欲しかったのではなかった。なるほどなで受け流して、さらりと流れる水のように、何事もなく終わると思っていた。何も言えなくなってしまって、気まずさからスプーンを動かす。寸胴は、手持ち鍋くらいの深さにはなっていた。
「までも、来年もあるしね」
「そう」
「ここからよ。花の大学生」
「楽しみや〜〜」
ぐしゅりと、紙風船がつぶれたみたいな心のしぼみが、尾を引いた。濃いカラメルの中に、細かくなった黄色が浮遊している。集めて食べようかとも思ったけれど、別にいいかと諦めてしまった。
「またね」
「うん!またね〜」
「また大学で」
「気をつけてね!」
「そっちこそ〜」
彼女とは使っている路線が違う。彼女の線の改札まで送り届けて、帰路についた。手をぶんぶん振って別れを惜しむ彼女も、一度まっすぐホームを向いてしまえばさくさくと前に進んでいく。わたしが振り返ってみた時には人の中に消えていた。しくりと心が少し痛んで、まあ当たり前かとポケットからイヤホンを取り出して耳に捩じ込む。
幾度となく繰り返したプレイリストから、覚えてしまったフレーズが流れ出す。自分の好きな音楽が外界と自分を分けてくれている。気がする。だから、わたしは電車が嫌いではない。たくさんの他人の目がある場所だが、自分に注目している人間はいないから。集団に属している印象は持つことができるが、それによって自分が害されることはない。生ぬるい環境。
春の兆しが見えてきたとはいえ、未だ2月。夕方の5時すぎだが太陽は見えなくなっていて、街並みの中のビカビカした電飾が不健全な明るさをもたらしていた。目の前を通る、ホストの顔が並んだトラック。地雷系の服装をした女の子がきゃあきゃあと歓声を上げていた。写真を撮る様を横目に通り過ぎる。
地下鉄の改札を定期で通って、期日の表示が出ていることに気づく。そういや、もうすぐ切れるんだっけ。学校もないのだから買うのを控えるべきだったのに、つい癖で先月買ってしまった。その分のお金は親からもらっているから別に損ではないのだけれど、ただ無用なものに金銭を払ってしまったな、という後悔はある。大抵電車を使って移動するので、大きな損害が発生するわけではないのだが。なんとなくの習慣で日々を過ごして、物事を考えられていない。キツネが化けた時の人間ってこんな感じだろう。行動は真似できるけど、理由が分かってない。臨機応変に、とかできないタイプ。
電車の中はムッとした暖かさがある。中吊り広告の、受験に向けた予備校のメッセージが視界に入る。もうそんな時期なのか。心の内側から苦く、ねばねばとしたペーストが奥底から滲み出ている。広告の枠として、定規のメモリが使われていた。デザインとしてはすてきだけど、縮尺は合っていなさそうだ。
彼女はきっと、目盛りの細かい生活をしているのだろうなとぼんやりと考えていた。暖かで快適な車内が思考を加速させていく。日々に計画性がある。わたしみたいに、丼勘定で日常を送っているような、適当な人間じゃない。
高校の時の理科の実験を思い出した。わたしがビーカーなら、彼女はメスシリンダーだ。目盛りの細かさが、全然違う。単価も違うんだっけ。私の班の子がビーカーにヒビを入れた時に、メスシリンダーじゃなくて良かったと教師が言っていたのが記憶に残っている。
人としての価値も、きっと、というか、絶対に違う。こんなのを考えている時点でそうだ。人と自分を比べるべきじゃない。比べないように、他の人と違うスタートを切っているのに。じくじくとこころが痛みはじめて、傷口にねばねばがまとわりついて。思考がぐるぐると回っていく。
耳の傷口がむずがゆくて、摘んでごりごりと動かした。あの日からかなりの月日が経って、かさぶたになった傷口はあまり目立たない。ただ、触れてみると軟骨がぐちゃぐちゃになってしまっているのがわかる。これって治るのかな。
こんな失敗ばかりだ。何も考えずに行動して、取り返しがつかなくなって。自分を憧れに近づけようと、中途半端に足掻いて、どうにもならなくなっていく。全ての行動に自分がない。
他人の承認と、肯定に依存している。
ズッと胸に重しが入って、肋骨の奥に満遍なく染み込んでいくようだ。深々と積もる雪のような、あの重さが。
彼女みたいに、自分が、確立できたものが、何一つとしてない。自分の決断に自信が持てない。だから、憧れをそこに置いて、自分を正しいと考えている。憧れだから。いろんな人に愛されて、支持されているから。それを好きになっているわたしは愛されるだろうし、認められるはずだ。
でも、本当に?
イヤホンから流れ込んでくるメロディに息が詰まって、呼吸が浅くなる。呼吸がうるさくないか不安になって、一度音楽を止めた。音がなくなった分周りとの距離が近くなった気がして、また再生する。直上のスピーカーから流れる英語のアナウンスが、音楽の上から鼓膜をひりつかせる。
外部に価値を求めて、わたし自身はからっぽだ。自分で決めた意思決定って、今までにあった?自分がかっこいいと思っていた友達が上京するという噂を聞いたから、東京の大学に進学しようという選択肢が自分の中に芽生えた。幸い、家の財務状況がよかったから、そのまま上京して、なんとか入れた学部で、流されるように履修をしている。
やりたいこととか、そういうのは、ぜんぶ周りの影響だ。
人よりピアスを多めに開けているのは、snsで見るようなかっこいい女の子に憧れているから。楽器を始めたのだって、ひとつ上の好きな先輩がやっていたから。他人ありきで始めた行動は全てが中途半端で、ギターはFコードが弾けずに部屋の片隅で置物になっている。
自分の狭いスクリーンに他人の鮮やかな光を映して、自分のものになったと思っているだけだ。わたしにあるのは、無地の、陽に焼けて黄ばんでしまったキャンバス。自分にあると思い込んでいた他人の光は離れるとすぐに消えてしまう。弱く頼りないものだから行動には一貫性がない。何かひとつ決めて、やり切れたことがない。色々なことを少しずつ経験していると言えば聞こえはいいけれど、要は何もできていないのだ。なにか、自分らしさが。それがあったらいいのに。すべて他人にもらったものだ。
物事の大半は真似から始まるともいうけれど、わたしの場合は真似ですらない。人の行動を、キツネみたいに漠然と、体に映し取っているだけ。その人の根底にある理由とか理念とか、大事なところはわからないまま。
は、と電光掲示板を見ると最寄駅に着いていた。
慌てて降りて、駅のホームにぼんやりと立ち尽くす。ぐつぐつと脳が煮詰まって、さらさらと耳から流れていってしまいそうだ。いっそ、そうなって欲しかった。自らの至らなさに、人としての浅さに気づいてしまった脳みそは、拒絶を起こして、シクシクと心に痛みをもたらしている。認められない。わたしは、だって、みんなに好かれているはずなのに。なんで?かわいくないから?太っているから?
こういう考えしか、思いつかないから?
目に膜が張って、見慣れたホームドアが歪んで映る。ずるずると身体を引きずるように、駅の階段を登った。
一つしかない改札が、間延びした音で自分の存在を示す。それに乱雑に定期を押し付けて駅を出た。先ほどまでは晴れていたのに、外は傘を刺さなくてもいいくらいの雨で、もう全てが嫌になる。ヴン!と音を立てて、目の前をピザの宅配バイクが通り過ぎた。それがなんだかとてつもなく悲しくて、堰を切ったように頬をぼろぼろと水滴が伝う。
もう嫌。何もかも。でも全てを投げ出す気概も、覚悟もない。ベロアに水滴がついて、キラキラと綺麗だった。ズッと鼻を啜って、メイクが崩れないようにそっと、顔に袖を押し付ける。すこしでも幸せになりたくて、それにはカロリーが必要で。駅前のピザ屋に足を運んだ。
自動ドアが開くと油の臭いがした。平日だからか中に人はいなくて、大学生らしきバイトがぼんやりと立っている。
「らっしゃせ」
沈黙のまま、レジに敷かれたメニューを見つめる。ぼや、と視線を動かすとブラックオリーブが乗ったピザがあることに気づいた。
「……これ、ください」
「サイズはいかがしますか」
「sで」
「お持ち帰りですか」
「はい」
淡々と、定型化した流れであろう言葉が耳に流れ込む。
「お会計1650円です」
財布には、もう三千円しか残っていなかった。一回の食事に、しかも1人でしか食べないご飯に、1650円。自分が何を考えているのかわからない。
「ありやとやした〜」
手にほかほかのピザを持って、しとしととした雨の中を、1人で歩いていた。このあとの食費はカツカツだ。大きいのを買って、少しずつ食べたら良かったんじゃない?数百円しか変わらないのだし。いやでもきっと、それでも全部食べてしまうんだろう。なんで?
安アパートの、クリーム色の壁面を見ながら階段を登る。左手からずっと美味しそうな匂いが登ってきて、自分がピザを買ったことは事実であることを突きつけられる。
家に着くと、ベランダで干していた洋服が濡れてしまっていることを思い出した。慌てて靴を脱いで、角ハンガーを乱雑に取り入れる。
皺になるものはないから、もうあとで干そう。床に座って、ほかほかのピザを膝の上で開けた。ムッと、チーズとか、そういった美味しい匂いがたちのぼって、安心して、またぼろぼろ泣いてしまう。
自分が太っていると思うなら、きちんとダイエットすればいいのに。お菓子とか、こういうジャンクなものを食べる習慣をやめたらいいのだ。毎回心でわかっているのに、頭は直近の快楽に負ける。自分は憧れに、きっとずっとなれない。なれないものだから、憧れとして置いているのかもしれない。でも、なりたい。
自分はきっと憧れになれると思っている。自分が特別だと、何か尊重されるべき人間だと思いたい。
でもおいしい。チーズが伸びる。あたたかい。しあわせだ。
脳がぐちゃぐちゃになって、余計に泣いて、頭が痛い。はじめて食べたブラックオリーブは、メニューの写真と違って少ししか乗ってなかったし、チーズに負けて味が感じられなかった。