2026/9/7(月)夜中に大雨が降ったようだが、よく眠った。太ももの筋肉痛が引かない。あらかじめわかっていたことだが、体重の数字が2キロほど増えている。トレッキングのあとはいつもそうだが、数日間はむくみが酷くて、数字にも頭著に現れ出る。旅館の食事も残さず平らげたので、妥当ではあるが。またしばらく素食で節制。筋肉痛がひどいので、今日の運動は休み。豚汁をまた作り置きしようと思って買い物をして帰ったが、切らしていた味噌を買うのを忘れてしまった。常温で置いてしまった豚肉は、下ごしらえして冷凍しておいたゴーヤと卵と炒めて即席のチャンプルーにした。
仕事、初めましての業者さんと打ち合わせ。70代とおぼしき営業の方だが、ものすごくパワフルである。すごく感じのよい方なのだが、話し終えた後なぜかパワーを吸い取られたかのように疲れを覚える。ときどきこういうタイプの人がいるから面白い。
イスマイル・カダレ「砕かれた四月」を読み始めた。アルバニアの高地を舞台に、「血の掟」と呼ばれる厳格な復讐の法に縛られた人々と、何の罪もないのにその掟によって殺人者とならざるを得ず、またそれによって復讐される対象となった青年。全体を通じてひりひりとした緊張感、因習としがらみからの逃れがたさからくる陰鬱さが支配している。かなり好きな部類の小説。カダレの創作ではないのだろうがと思いつつ調べてみると、この「カヌン」といわれる血の復普法は実際にアルバニアの高地地方に今も残っているらしいという記事を見つけた。「砕かれた四月」に象徴的に表れる「避難の塔(復讐対象となった者が閉じこもる塔)」の実際の写真も記事にあり、その背後の美しい山々とのコントラストがなお不気味だ。
2026/9/8(火)筋肉痛がいくぶん和らいでくる。足と顔が相変わらず浮腫んでいる。湿気て蒸し暑い朝だ。通勤電車で、イルゼ・アイヒンガーの短編集「縛られた男」を読み始めた。どれも短いが、非常に比喩と創造性に富んで面白い。アイヒンガーはユダヤ人の家系の出身で、ナチスドイツのホロコーストで親族を大勢亡くしたのだそうである。イルゼ自身はドイツ人の血が入っているために収容所行きとはならなかったものの、ユダヤ人である母親はいつ連行されるとも知れず、母を守りながら戦争の終わりを待ったそうである。その経験からくるのであろうか、安易な慰めや希望は受け付けないという冷徹な眼差しを感じる。
まだ筋肉痛がするので、運動は休み。外出していたために週末の掃除が十分にできていなかったので、掃き掃除と拭き掃除、水回り掃除など一連のルーティーンを終わらせて、気持ちが落ち着く。豚汁を仕込んでおく。寝る前に甘いもの欲に駆られて、菓子パンを食べる。よくない。
2026/9/9(水)夜中に雨が降ったようだ。しばらく晴れ間を見ていない。涼しいのはありがたいけれど、ずっと天気が悪いのは気持ちが晴れない。シーツ類を干したいのだが。筋肉痛・むくみは落ち着いてきて、体重も戻ってきた。ひたすら地味な事務仕事をする。古文書レベルの古い文書をスキャンして電子化している。地味だが、意外に重労働である。私が生まれるよりも30年、40年、50年も前の会議資料だが、手書き。計算も集計も図も手で。それよりも衝撃なのは、今もなおほぼ同じ様式の書類があること。仕事のやり方は変わっても、枠組みはほとんど変わっていないのが我が社らしいと笑ってしまう。昔の人の事務はすごいなあと思う一方で、今は膨大な情報量を取捨選択し、複数の業務を同時並行・切り替えながらやるので、事務と言ってももはや別の仕事だろう。
ウィリアム・フォークナー「野生の棕櫚」を読み始める。久しぶりにジムへ行き、軽く筋トレと有酸素運動をした。
2026/9/10(木)朝、ふたたびしとしととした雨。しばらく太陽を見ていないように感じ、なんとなく気持ちがふさぐ。ウィリアム・フォークナー「野生の棕櫚」を引き続き読んでいる。「野生の棕櫚」パートと「オールド・マン」というパートが交互にくる面白い構造で、今のところその二つが交錯することはなさそうだが。「野生の棕櫚」パートの語り手である元医学生ウィルボーンだが、行動が支離滅裂で(いや、本人の中では筋の通った行動であるらしいのだが、その理屈が読み手としては筋が通っているようには感じられないし、フォークナーもあえてそのように書いているように感じられる)、終始不穏で、破局に向かっているようにも感じられるのだが、その符号が果たしてそうなのか判断がつかない。「オールド・マン」パートは、ミシシッピ川の氾濫に巻き込まれた囚人の話だが(ミシシッピ川のことを俗に「オールド・マン」と言うそうである)、こちらは神話的な様相を呈してきた。氾濫に巻き込まれて囚人らの集団からはぐれた語り手は、妊婦と出会い、二人で小舟でどこかへ向かっている。創世記の大洪水とノアの箱舟がモチーフであることは何となく読み取れるのであるが。
帰宅後、図書館に予約の本を取りに行き、ついでにスーパーで買い物。雨の夜、秋の虫がりりりといる。わたあめのような犬が、ぴかぴか首輪でぴかぴかしていて、かわいい。値引きのメバチまぐろをめかぶで丼にする。食後に梨を食べる。みずみずしくておいしい。冷蔵庫に果物のストックがあると心が助かる。
2026/9/11(金)まだ雨が降っている。秋の長雨というには少々長い。朝、昨晩スーパーで買ったおおつとめ品の牡蠣フライ。〆て700キロカロリー也。フォークナー「野生の棕櫚」を引き続き読む。仕事で、とても綺麗な名前の女性に出会う。音も字も珍しいというものではない(奇をてらったものでもない)のだが、その音とも文字の組み合わせが言いようもなく美しくきれいなのだった。素朴な和歌や俳句に触れた時のような詩情がある。
帰りも雨だった。アメリカ同時多発テロから四半世紀ということに驚く。久しぶりに「落ちる男性」の画像を目にしてしまい、当時のことを思い出した。当時は小学校低学年でよくわからなかったが、家族が「飛行機がビルに突っ込んだ」と騒いでいたこと、燃え盛るビルから体を乗り出して手を振っている人たちの姿と、ビルから飛び降りた人の落下中の写真を新聞だかテレビだかで見て、子供ながらに衝撃を受けたことを覚えている(今でも覚えているということは、相当に衝撃だったのだろう)。「落ちる男性」の心に去来したであろうものを考えそうになることがあるが、たとえ「冷たい態度だ」と謗られても、自分の心を守るために私はそんなことはしない。先日のチベットの大規模な災害でもそうだし、東日本大震災でもそうだったが、人の命が闇に飲み込まれる瞬間の映像があまりにも簡単に目に入るようになって、心がざわざわとする。小さき市井の人間が自衛としてできることとしては、気持ちがつらくなる前に自分の意思でそれから距離をとる、ということだけだ。