日記(2026/3/29ー4/3)

八月の光
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公開:2026/4/4

 「何かしら毎日文章を書く、その具体的な方策として」の日記を約1年半ほどやってきたのだが、過渡期を迎えているようだ。毎日書く、どんなに下手な文章でも何かしらを、ということが習慣として定着してきたとき、私は欲を出したのだった。「いい文章を書きたい」という欲である。その欲が次第に育ち、看過できないほどになった時、私は日記を書けなくなってしまったようだ。2月ごろから日記の書けなさに迷うようになって、3月に入っていよいよ書けなくなった理由をそのように分析している。なぜ個人的な営みとしての日記をインターネットの海に流してしているのだろうかという自問自答もあり、自己顕示欲や承認欲求の間で悩みもした。自分から大声をあげて注目を集めることは苦手だが、しかし誰からも顧みられないというのも耐えられないのである。しかしこうしてまた公開の場に日記を書いているので、誰かに読んでもらいたいという気持ちがあるのは偽らざることなのであった。

 文章を書くことは続けたいので、色々とやり方を模索してみることにしたい。日記という形態は維持しつつも、「毎日何かを書く」ということを真ん中に置いて、こだわりなくやってみたい。私は何をするにも自分を型にはめすぎる。何かをするために型が必要な人間で、それに沿っていけばある程度のところまでは行けるのだけれど、型がいつの間にか塀になってしまってどこにも行けなくなる。そういうわけで、塀に自らの手で穴を穿つために、色々試してみたいというのが今の気持ち。

 1年間の仕事の最後の山場をこの年度末で迎えている。システム切り替えの不具合でメールも印刷機も使えず、事務屋としての翼をもがれた状態だが、脚は生えているのでぺたぺたと前進している。以前の上司(元ラグビー部)のモットーである「倒れるときは前へ」という言葉を思い出す。同じ上司の言葉として「本当につらい時は阿呆の振りをしろ」というのもあるが、こちらはまだ実践せずに済んでいる。土曜日に続いて日曜日も出勤し、追われるように仕事をする。

 4月1日は年度始まりである同時に、採用担当者にとっては1年間の仕事が結実する日でもある。新採用者たちを迎え、入社式では感極まって泣くかもしれないと思っていたが、採用目標を達成したこと、そして1年間がようやく終わったとほっとした気持ちの方が強かった。そして居並ぶ彼ら彼女らに、必ずしも明るくない道のりが遠望できるというのによくこの世界に入ってきてくれたものだ、と感謝の念を抱く。同僚が「私たちは1日遅れで年度末がくる」と言っていたが、まさにその通りである。副社長に報告に行ったとき、労いの言葉をもらって全てが報われた気がした。

 後片づけをしてどたどたと執務室に戻ったら、ちょこんと黒スーツの女の子が座っていた。私の新しい部下となる新卒採用者Mちゃんであった。去年の4月にやはりここに配置された新卒の部下T君とは残念ながらうまく関係性が築けず、年度の途中で私一人となったが、今度は同じ轍を踏まないようにしたい。プレイヤーであると同時にマネージャーでもあったのだが、昨年度はほとんどプレイヤーとしての働きしかしていなかったように感じる。任せなければ成長はないとわかっていても、信頼して任せるということがいかに難しいか。Mちゃんはとても感じが良く、気さくないい子だと感じた。

 出会いと別れの時期である。同僚Nさんは地元でもある沖縄へ旅立っていった。1日に出勤すると、私の机の上にお菓子が満載の紙袋とお礼の手紙が置いてあった。最後までまめな人だ。異動が激しくまた範囲も広い仕事ではあるが、きっとまた会えるはず。室のメンバーの入れ替わりもある。Nさんの後任者のSさんは、本社にいた時の同僚でよく知っており、こちらに出向してくると聞いたときには心強いと同時にここはSさんのようなしごできの人が来るところではないと思ったのだった。新しい課長補佐はもともとあまり良い噂は聞かなかったのだが、自分自身で接しないうちから相手を評価してはいけないと思っていたのでもあるが、やはり噂というのも侮れないとも感じている。レイモンド・チャンドラーの書名が頭に浮かんだ。《Will You Please Be Quiet, Please?》である。新体制となったがどんな1年間になるのだろうか。何事もなければ、私もあと1年で異動できるはずだが。

 

 文章が書けない上に、読書もあまり進んでいない。毎日、通勤電車にただ乗っているだけの時間が2時間ほどあるため、その時間を読書にあてることが習慣であったが、疲れのためか、あるいは別の理由のためか、読書意欲が低調になっている。この数年本を読めないということがなかったので、戸惑っている。自分が今何を読みたいのかのかもよくわからない。そんな中でも山下澄人「コルバトントリ」を読んだ。人称も視点も時間も縦横無尽な、大変奇妙な小説だった。山下澄人という人はもともとは演劇の世界の人で、描かれていることが舞台上で行われていると想像すると理解がしやすいのではないか。この人の書く文章は「こんな文章は他で読んだことがない」という鮮烈さがあるので、好きだ。それから、オーレ・トシュテンセン「あるノルウェーの大工の日記」、アルフォンソ・リンギス「信頼」を気が向いたときに読んでいる。大工の日記は、仕事に関しての本質的な記述がとても面白い。少し抜粋。

 毎晩ベッドに入ると、さまざまな思いが頭に浮かび、取り越し苦労に悩まされる。夜中に目が覚め、お金、請求書、仕事上の些細な事柄、施主やその要望などが、頭の中をぐるぐる回り続ける。結局こうやって考え続けるのは、自分は勤勉で努力家なのだと言い聞かせるためなのかもしれない。たとえ今回うまくいかなくても、少なくとも私は自分のすべてを注ぎ込み、やるだけのことはやったのだと。暇になるとこういった考えが浮かんでくる。集中できる進行中の仕事がないのでそうなるのかもしれない。ふっと、心の奥底にある自分の能力に対する疑念が湧いてくるのだ。そんな余地は、ないに越したことはない。 (93頁)

 金曜日は定時で職場を出た。19時に開演する「神韻」日本公演2026を見るために新宿へ急ぐ。ほとんど舞台中央の良い席を買ったのだが、後悔することのない舞台だった。鍛え上げられたしなやかな肉体と確かな技術力から繰り出される演技は大変見事だった。人間の身体能力の限界のなさに感嘆する。衣装や演出の美しさ、中国の古典に基づいた演目も面白く、約2時間の舞台を飽きることなく見た。

 神韻芸術団はニューヨークを拠点にする華人の芸術集団で、元は「法輪功」という気功の実践者たちが起源になっているそうだ。中国共産党からカルト教団扱いされて禁止されているため、中国では講演をすることができない。「法輪功」で検索すると、在日中国大使館のホームページに「中国のオウム真理教」という刺激的な言葉が載っており、それに反発するように神韻の演目の中に反中国共産党のプロパガンダ劇が含まれている。

 確かに宗教集団をその母体あるいは祖としているだけあって、演目によっては隠さない「宗教臭さ」というのは感じる。中国共産党が行っている人権侵害には明確に反対するのだが、かといって法輪功という集団のことを知っているわけでもないので(インターネットで調べても、どの情報が正しく誰の意図でどうバイアスがかかっているのか判断がつかない)、彼らのメッセージをどう受け取るかは保留にしたい、というのが今のところの感想であるのだが、この考え方である限りあらゆる文化に対して単に「観光客の文化体験」という立場でしか知ることができないのではないかという気持ちもある。

 同じ新宿文化大ホールで、10月にイーゴリ・モイセーエフバレエ団(ロシア国立の民族舞踊団)の日本公演が行われる。ロシア文化を愛するものとして、モイセーエフバレエ団の演技をyoutubeで繰り返し見てきたものとして(脳内再生できるほどだ)ぜひ見てみたいのだが(「夏」、そして「ヤーブラチカ」…死ぬまでに一度生で見てみたい!)、この世界情勢下では複雑な気持ちを抱かざるを得ない。芸術に罪はないという考え方もあるのかもしれないが、その芸術が国威発揚に利用されている現状思えば簡単なことではない。しかし、youtubeの再生利益に寄与するのはよく、チケットを買うのはいけないのかという話にもなるし、私が払った税金が回り回って何に使われているかを知らないことと何が違うのか、ということにもなる。チケットはやがては弾道ミサイルへ、だ。世界は複雑で、自分の手から離れてしまったものの行く先は半径1mですらもうわからない。好きなものを素直に好きと言えない、本当に嫌な世の中だ。

@augsutus
主に日記を書いています。