インフルエンザワクチンの副反応らしき症状に引き続き苦しめられる。朝、37.0度。胃腸の弱まりがあり、朝食がほとんど食べられない。主務をしている担当業務に関する説明会を予定していて、午前だけでも仕事に行かねばと思い、出勤。同僚や上司の勧めで、午後は休みを取った。
微熱が下がらず、ベッドに横になりながら、具体が悪い時特有のぐるぐる思考に苛まれる。自分にしかわからない仕事があるから、という理由付けで体調不良をおしながら出勤をしたわけだが、自分にしかわからない仕事がある、という状態がすでに仕事のやり方として適当ではない。室全体がそれぞれ忙しいので、皆が隣の係の状況まで把握している余裕がないというのはその通りだが、「自分だけがわかっている」という状態に悦を覚えている自分がいなかったか、などと考える。
仕事には、生計維持の手段としての側面と、自己実現の手段としての側面があり(自己実現の方は、考え方が違う人もいるだろう)、私の場合は、特に最近は自己実現の方に比重を置きがちである。働くことが好きという前向きな理由もあるはず。ふと周りを見渡せば、祖母・母・姉は凝り性型の好きで仕事をするタイプで、これはもう遺伝子なのかもしれない。だから私も、長時間労働が続いても耐えられるのだろう。仕事はつらいが、つらいからこそ楽しい。出産・育児を経験せずに30代半ばを迎えようとしているものとして、エネルギーを注ぐ先が仕事であった、いうこともある。仕事をすること(と納税)でしか、社会に寄与する手段を持たない、ということもある。
自己実現欲求は、唯一無二の存在でありたいという欲求と直接連結することがある。だが、この欲求は「業務を属人化させてはならない」「非人格的でなければならない」という官僚制の原則と真っ向から対立するものであって、そういうあたりもこの組織の長年の歪みだな、などと他人ごとのように思う。これは永年の課題であり、排除不可能な課題。デマケーションとセクショナリズムが染みついた業界で、ある事業の担当になるとそれにまつわる事務は一切合切せねばならない仕方なさがあるが、それはそれで性に合っているのかもしれない。などと、夢うつつに考えるのだった。熱は下がらない。
夢を見ていた。ヨーロッパ風の農村地帯に私はおり、同行者がいたはずだが、いつの間にかひとりになっていた。見渡すと、落ち葉なのか、花びらなのかわからないが、強風にあおられて何かが中空を待っている。長く伸びている道の向こうから、何やら楽し気な音楽と人の声が聞こえている。ふと、その日の宿が近くにあることを思い出し、その方向に足を向けるが、時計の針が高速回転したかのように日が暮れだす。雷雨の予感がし、真っ暗闇と雨の中を走っていき、ロッジ風の建物にたどり着いた。2階に上ると、誰から外から声をかけてくる。というところで目が覚める。目が覚めると、ひどい寝汗をかいていた。
サミュエル・ベケット「モロイ」と、奥山淳志「庭とエスキース」を読んだり、うとうとしたりしていた。明日以降も業務が詰まっているので、必ず回復したい。