朝、体重計に乗ると、悲しかった。このひと月の自分を大切にしない生活が、体重と体型に表れはじめているのだった。魂の怠惰が現実の肉体を蝕む。朝食は昨日と同じ内容(白菜と春菊の味噌汁、イワシの煮つけ、古代米入りご飯)。これにお弁当用に作ったが、作りすぎたサツマイモの甘露煮を。
このところ昼休みを気分転換も兼ねてウォーキングの時間にしている。疲れている日はできないこともある。職場近くに大きな公園があり、今日もそこへ向けて歩く。日光を浴びて、寒さと風を肌に直接感じると、胸がすくのだった。落ち葉を踏みしめて歩く。椿が可憐に咲いている。

池の鯉を眺めていると、ボルヘスの短編にある一節を思い出したのだった。家に帰ってあたってみると、実際にはこのような文章である。
それよりももっと強靭で、傷つきやすいものを私は捜し求めた。何世代にもわたって生きつづける穀類や牧草、小鳥、人間を思い浮かべた。おそらく私の顔には呪文が書き込まれ、私自身が探求の最後になるはずだった。そんな風に懸命に考えているうちに、ふとジャガーが神の属性のひとつであることを思い出した。
そのとき私の心は敬虔の念で満たされた。時間の最初の朝を創造し、生きているジャガーの毛皮に呪文を書きつけている神を想像した。ジャガーたちは洞窟、あるいは葦の茂み、島で愛し合い、次々に子供を生んでいき、最後の人間がその呪文を受け取るだろう。虎たちが織り上げる網目を、虎たちの熱い迷宮を私は思い浮かべたが、虎たちはその図柄を守り抜くため牧場に、家畜の群れに恐怖をもたらしていた。牢獄の向こう側にジャガーがいる。ジャガーのそばに身をおいて、私は自分の推測が間違いないと感じ、神の秘めた好意を感じ取った。
『神の書き残された言葉』木村榮一訳
鯉からこれを連想したのは、むしろ直接ボルヘスからというよりも、大江健三郎を経ているのかもしれない。大江健三郎の「M/Tと森のフシギの物語」だったかどうか、川で溺れた子供が気を失う寸前に、魚の群れの、太陽の光を浴びて光る腹に、ジャガーの模様に書き込まれたそれを連想させた、という件があるのだった。大江も間違いなくボルヘス(あるいはラテンアメリカのマジックリアリズム)の影響を受けているだろうから、私は稚拙な孫引きということになろう。

世界は新鮮な発見に満ちていると知るためには、小さな部屋に閉じこもっていてはいけない。
ウィリアム・フォークナー「熊」をようやく読み終えたのだった。サム・ファーザーズとブーンの関係性が十分に読み込めないままに、そして彼らの背後に流れる南部アメリカの歴史を十分に理解できないままに“読み流してしまった”という感じがする。続く「むかしの人々」を読み始めたが、こちらはサム・ファーザーズの生い立ちを追っていく物語で、「熊」を理解する助けになりそう。そして、とても中上健次が読みたくなる。