ようやく解熱したが、風邪症状が残る。ワクチン副反応ではなく、ただ風邪をひいていたのではないかとさえ疑ってしまう。時間もなく食欲もなくで、何も食べずに家を出る。習慣で職場までの一駅分を歩いていたら、なか卯の親子丼なら食べられると思い寄った。ただ白米は半分も食べられない。
説明会2回目を行う。昨日と同じ内容なので、記憶の定着により昨日より上手く喋れる。来年はもっと上手くやれるだろう。解熱したとはいえ病み上がりで、午後から体調が降下し始めたが、あれやこれやと仕事をしていたら21時を回っていた。体調は良くないのだが、休んでいる暇がない、というのは傲慢なのかもしれない。案外思いっきり1日休んでしまっても障りないのかもしれないが、レゾンデートルに触れてしまいそうでそれはそれで怖い。
通勤電車で奥山淳志「庭とエスキース」を引き続き読む。写真家である著者が、北海道の原野の丸太小屋で自給自足をして一人暮らす「弁造さん」を訪ねて暮らした十余年の記録。その静かながら熱のある筆致に、如何に著者がこの弁造さんに惚れ込んだのかが伝わってくる。筆は何も包み隠しはせず、弁造さんの明晰さ、おおらかさや豪快さを書く一方で、老いからくる卑屈さ、孤独までをも書き出す。老いから、長年こだわってきた薪ストーブをやめ、石油ストーブを使い始めたり、畑に行くのも電動車椅子を使い始めたり、あるいは老人ホームに入る準備を始めるなど老いてひとり暮らす現実をまざまざ書き出してくる。
どれだけ心豊かに暮らしているように側から見えても、どこにでも僻みや妬みの感情の種というのはあり、孤独という苗床がそれを育てる、と言えるのだろう。とても他人事ではない。