代休のため、朝アラームをかけず。すっかり日が昇り9時、自然光で起床。8時間ほど寝たが、思ったほどは眠れない。自然光が満ちた自宅の光景が久しぶりである。
冷蔵庫に生鮮食品が乏しく、タッパご飯を温め、目玉焼きを2個(卵の消費期限は大丈夫が不安)、チョリソーソーセージを焼き、即席味噌汁で朝食。久しぶりにテレビをまともに見た。世相に追いついていない。それから溜まった家事を。自宅がようやくベストコンディションに戻った。荒れた家は精神衛生に良くない。他にもやるべきことをせかせかと済ます。延滞してしまった図書館本の返却など。ふるさと納税の書類を書かねばならないが、そこまでは手が回らなかった。バルコニーの季節が終わった植物の片付けもやらねばなのだが。
昼過ぎ、荷物をかついで上野駅へ。新幹線に乗って東北へ向かう。駅弁を味わいながら、昼からビールを飲んだ。

「カラマーゾフの兄弟」江川卓訳を引き続き読んでいく。読むたびに惹きつけられるところ、新しく気づくところがあり、飽きることのない小説だ。今まで何度も読んでいるので、読み飛ばしているわけではないはずなのだが、光る部分が毎回変わってくる。今回の訳でははじめましてなので、読み手としてのテーマは特に設けていない。
序盤、アリョーシャがカーチャの家に向かう途中、ミーチャに塀越しに呼び止められる場面である。ここで、とても示唆的で重要な台詞があることに気づくのだった。
突然、ミーチャの胸からはげしい嗚咽の声がもれた。彼はアリョーシャの手を取った。
「いいかい、いいかい、アリョーシャ、汚辱の底なんだよ、いまだって汚辱の底に沈んでいるんだ。人間はこの地上で恐ろしいほど多くのことを耐え忍ばなくちゃならない、恐ろしいほど多くの不幸に耐えなくちゃならないんだ! おれのことを、将校の肩書をもって、ただコニャックを飲み、放蕩三味の生活を送ってる下司野郎だなんて思わないでくれ。おれはな、兄弟、ほとんどこのことばかり、この汚辱に沈んだ人間のことばかり考えて生きているんだ、出まかせを言っているときは別だけれどな。ああ、もうこれからは出まかせなんて言いたくない、空威張りなんかしたくない。おれがこの人間のことを考えるのは、おれ自身がそういう人間だからなんだ。
汚辱の底に沈む人の子よ、もし魂の目ざめを果そうとするなら、
万古かわらぬ母なる大地ととこしえの契りを結ぶがよい。
ところが、問題はここにある、どうやっておれは大地ととこしえの契りを結べばいいんだ? おれは大地に接吻もしなければ、大地の胸をこの手で耕すこともしない。おれは百姓や羊飼いになれる柄じゃないものな。おれはやみくもに突き進んじゃいるが、自分が悪臭と汚の中にはまりこんだのか、それとも光明と歓喜の世界に踏み入ったのか、さっぱりわからないんだ。なにしろこの世はすべて謎なんで、そこが困りものなんだな!」
(p251-252)
「大地ととこしえの契りを結ぶ」と言うのは、後々ミーチャに訪れた「子供の夢」に直接的に繋がるし、アリョーシャに訪れる「カナの婚礼」の場面にも繋がる。すでにここに、ミーチャが「真実」を希求する人間であることを示唆していて、ドストエフスキーの構想力に驚く。
新幹線から在来線の接続が悪く、1時間ほど待つ。誰もいない待合室で大江健三郎自薦短編を読んでいた。中期短編から『河馬に噛まれる』、『「河馬の戦士」と愛らしいラベオ』、後期短編から『「涙を流す人」の楡』、『べラックヮの十年』を読む。時折り思い出すように読んでいたこの短編集だが、ついに読み終えてしまいそうだ。
ようやく電車がくる。ちょうど高校生たちの帰宅時間に重なり、東北訛りの会話につい聴き耳を立てる。目的駅までつくも、次はバスないタクシー来ないで時間がかかってしまった。別に急いではいないが東京の生活のスピードに慣れてしまっている。1キロ先のスーパーへ歩いて行き、買い出し。今日も帰りが遅い家主Sを待ちながら、おでんを仕込んだ。本を読みながら、帰りを待つ。