産後ケア事業という行政サービスの一環で妻が子とともに一泊二日の宿泊サービスに出かけ、再びしばしの自由時間を得たので、渋谷のユーロスペースでホン・サンスの『小川のほとりで』を観て、それから奥渋方面を徒然なるままに歩くことにした。平日の昼間にあてどもなく徘徊することの愉悦はたとえようのないものがあり、また特にそれがかつて学生時代に頻繁に足を運んだ街であるとき、それは過ぎ去った時間の貴さと気づけば失われていた自由の手触りを不可避的に思わせるものでもある。
Bunkamuraの東急跡地はすっかり解体し尽くされ、巨大な工事現場となって幾台ものクレーンが稼働している様は何度通りがかっても異様な感じがする。赤を基調とした本場のブラッスリー風の店構えで、実際に日仏ハーフの友人によればクロワッサンが相当ちゃんとしているらしいVironには平日の日中でも行列ができ、目の前の街路樹が植えてある生け垣の縁には私たちがかつてそうしたように若者たちが座り込んでたむろしていた。その様子を横目に一本中の道に入って、センター街の果てる宇田川通りの方へいくと、徐々に人混みもまばらになり、入り組んだ路地に小洒落たカフェやバー、古着屋などが立ち並ぶ区画になって、それはセンター街で遊んでいた高校生が大学に入り少し背伸びをして足を伸ばすような気恥ずかしさとともにある区画でもあるのだが、そこに表通りでは味わえない遊歩の愉悦があるのは否定しがたい。
宇田川通りのほうへ降りていくちょっとした坂道では、イタリア料理店のスタッフと思しき、イタリア国旗のついたユニフォームを身に着けた生真面目そうでやや禿頭の白人男性が複数の段ボールを乗せた台車を忙しなく押していて、途中危うく通行人と交差しそうになりつつも段ボールをぶちまけることなく無事に下り終えて別の路地へ消えていった。それと入れ換わるようにして、ロリータっぽいがたぶんロリータとは違うファッションのサブジャンルに属するだろう10代か20代前半の女性が次々と数人現れ、しかしそのスタイルを指す用語や概念についての知識が私には欠けているのでどうしても描写の解像度が粗くなってしまう。ちょうどいま読み進めている金井美恵子の『目白雑録』には、自身の作である『噂の娘』に出てくる「ジョーゼット、ドロンワーク、ピーターパン・カラー、ドロップ・ショルダー」といった用語を男性批評家が〈男の読者は知る由もないから降参するが〉と書いていることに対して、「たいていの女なら知っている女子供の服飾や手芸についての言葉が出て来る、というだけで一種の拒否反応をおこすのは、もちろん、ある種の男特有の現象だろう」と鋭く切り捨てていて、一見軽薄に見える言語のなかに潜むジェンダーをめぐる権力構造、すなわち「知っているべき/知らなくてよい」用語を判定する男性批評家の抑圧性を暴露する優れた批判として読んだのだが、敷衍すれば、無能な男性の書き手が「女子供」の言葉や視点を無視する権力に安住し、そうした言葉や視点を描きえない己の無能さに直面せずに済んでいるのに対し、鋭敏な女性作家が女性のだけでなく男性の視点や言葉をも匠に操ることができる、という事態にもつながり、また同様の構図はエスニックマイノリティやトランスジェンダーなど他のマイノリティ全般にも成り立つ話だと思う。初期の金井作品が男性視点で描いているのも、そのあたりの事情についての自覚的な批評意識に基づくものなのか、それとも男性に取り囲まれた早熟の天才作家が当時の時代背景ゆえに当初は無意識のうちに男性視点で書くことを強いられ、その後そのことを徐々に自覚していったのか、後者だとすれば初期のヌーヴォー・ロマン的な作風から日常ものにシフトしていったこととどのように関係があるのか、といった興味が次々と湧き上がってくる。しかしまた、ある趣味世界に特有の言語への通暁と無関心という主題をめぐっては権力関係がさほど介在しない場合も当然ながらあることにはあり、例えば今通っている美容院の男性美容師が趣味で観戦している総合格闘技について、私は一切の知識もほとんどの関心も持ち合わせていないのだが、話の種にこちらからどういう技や戦術があり、どのような勢力図や見どころがあるのかといった質問を差し向けても、意外と明確な答えが返ってこない。ネイティヴであることと語学教師であることが異なるように、ある趣味世界の言語に通暁した人がそうでない人に解説する言語を持たないということもまたあることなのかもしれない。
足は狭く蛇行した路地を進み、両手にはカフェ、居酒屋、古着屋、居酒屋、シーシャ、ライブハウス、レコード屋、などなどが延々と続く。まだ午後も3時台で人通りも少なく、どの店も店内はがらがらか、営業前の慌しい仕込みの風景が広がっている。ある店の扉にはClosedのプレートがかかり、暖色の光が灯る室内では店員の男性がラップトップを開いて作業している。また別の店では、がらんとした店内の隅で暇を持て余した一組二組の明るい髪色の若者たちが笑顔を見せ合っている。いくつかは地に接し、いくつかは半地下に棲まうそれら店々の様子を横目に覗き込みながら通り過ぎるとき、遊歩とは〈表面〉の経験なのだという思いが去来する。遊歩者は孤独に、気ままに都市を彷徨い、誰とも言葉を交わすことなくただ視線をそこここに投げかける。次々と立ち現れる往来の人びとや魅力的な店々にそうして視線を這わせるとき、視線は想像のなかでその奥へと入り込んでゆくが、遊歩する現実の身体はそうではない。すれ違う他人の一人ひとりには自分とはまったく異なる別の人生があり、その人生の軌跡を通じて自分が目撃することのなかった事象や風景を通り抜けていく。また今は足を踏み入れることのない店々の室内には魅惑をまとった光が灯り、そこに集う人々の間にはある深さを伴った交感が生じる。他者の内面や店々の室内は遊歩者が行く街路という〈表面〉を一枚捲った〈奥〉にあり、その〈奥〉にこそ世界のなかの意味深い出来事が生じているように遊歩者には思われるのだが、しかし孤独な遊歩者にとってそうした〈奥〉は決して到達することのできない何事かでありつづける。都市空間のなかですれ違う他者は実人生において交わることのない他人であり、その人生は想像することはできても追体験することはできない。遊歩しつづける限り、通りがかった店の奥で生起する出来事は通過しながら視線の端でわずかに捉えることができるばかりであり、否、気が向いたなら足を止めて店内に入っていってもよいのだが、しかし結局は即物的な飲食が刹那的に生じるだけで、そこが新たな〈表面〉に成り代わるばかりである。その〈奥〉に、到達しえない魅惑に満ちた経験は幻視され続け、裏返せば、到達しえない〈奥〉を遊歩が構成する〈表面〉のその先に想像しつづけることこそが遊歩の魅惑を備給している。もっと言えば、複数の〈奥〉を傍目に睨みながら、その一つから別の一つへ想像のなかで自在に跳躍することのできる自由にこそ、遊歩の愉悦は根ざしており、あるいは翻ってまた、遊歩者にとっての〈奥〉に生息する店員たちの横顔へと視線を沈潜させて彼らの生態を身勝手にも想像するとき、それはおそらく労働の雑事と気忙しさ、肉体の酷使の反復によって成り立つ大いに散文的な日常であり、そこでは〈奥〉の魅惑はもはや霧散してしまっていて、それ以外の人生という別の〈奥〉へと跳躍することを禁じられた袋小路にいつのまにか立たされているかのような寂寞が込み上げてくる。しかしまた、このような〈表面/奥〉の構図で遊歩を捉えようとするとき、それはたとえば〈運命の女〉や〈オリエント〉に魅了される問題含みの視線と同型の論理に下支えされているようにも思われる。そうして幾ばくかの疚しさがもたげるのだが、では〈奥〉への憧憬が倫理的に問題含みなものへと転じていく坂道は滑りやすいのだとしても、そこに踏みとどまりつづけることはできるだろうか。
左手の坂道からはふいにモッズコートに無精髭の暗い目をした男が降りてきて、「住所不定無職」という言葉が失礼にも脳裏をよぎりかけた次の瞬間、数歩遅れて金髪の男がリュックの身体の前後に二個抱え、小型カメラ片手に小走りで追いかけてきて、「こっちいきますか?」と声をかける。おそらくYoutubeかPVかなにかの撮影かロケハン中で、モッズコートの男が勝手に一人でずんずんと進んでしまい、スタッフの金髪が慌てて追いかけながらプランを練り直しているといった状況と思われた。そのようにして住所不定無職の男は一気に俳優かモデルかに格上げされたのだが、その暗い眼の陰鬱な深さにはただならぬものがあるようにも思え、実際に或る瞬間にその男の境遇を住所不定無職からモデルへと引き上げたのかもしれなかった。
それから区議会議員の選挙ポスターの旗を後ろに指した自転車が現れて、思わず気が向いてその後を追っていくと旧Uplinkの跡地に着いていた。かつて幾度となく通ったミニシアターは自分の趣味とは微妙にずれていて、それでも一時期は随分と通い、映画を見た後に併設されたTabelaで友人らと幾度か夕食をともにしたのも懐かしいが、オーナーのパワハラ問題もあり、その名を聞く度に微妙な感情もつきまとうようになってしまった。いまは吉祥寺に移転しているのだし、知識としてそこにないことは知っていたものの跡地まで足を運んだのは閉館後初めてで、調べると閉館したのは2021年5月のコロナ禍のことらしい。跡地は「東京オフラインセンター」という名のレンタル機材業者のオフィスになっていて、窓越しに透かし見る中二階の内部はどことなくスキー場の休憩所のような雰囲気で作業着姿の人影たちがせわしなく行き来していた。
一本裏に戻って北上を続けると、多数の流木が並べられた熱帯魚屋や保護猫シェルターがあり、リフォーム中の集合住宅の柱に水色、黄色、ピンクのカバーがかけられているのがあり、ビルの物陰で青いブルーシート生地のボストンバッグに大量の服を詰め込んだ金髪の女性二人が着替えをしている、おそらくはアパレルのモデルかスタッフかの一場面があり、デザイナーズマンションのようなコンクリート打ちっぱなしの建物の裏でスキンヘッドの男がシーツを詰め込んだワゴンを運んでおり、その後ろの喫煙スペースでは栗色の髪を後ろで束ねたは白人男性がタバコを吸っていてたぶん民泊か何かであり、それからオフィスビルから黒い不透明のゴミ袋を両手に下げた数人が次々に出てくる不穏な光景があり、気づけば水色の巨大な横断歩道とともに国道413号に突き当たって、その先は代々木公園だった。国道413号は山梨県富士吉田市から神奈川県相模原市緑区をつないでおり、「道志道」という別名があり、その名を亡き祖父から頻繁に聞いたことを思い出す。大通り沿いを歩くのはさして面白くはないが、ぐるっとNHKのほうまで回ると、正門からは様々な形状の荷物を抱えた職員らしき人々が次々と外に出てくる。バス停にはなぜか高校生が並んでいる。正面からはマスクをしたハライチの岩井が歩いてくる。
再び宇田川町の方に戻ると、耳に飛び込んでくる往来の声には英語や中国語など外国語が混ざり、いまは東急ハンズではなくなってしまったハンズの向かいの雑居ビルに、おそらくライブハウスの開園待ちらしき行列ができている。群衆が絶えず行き交う大都市にあっても行列は目に独特の印象を与え、行列に並ぶということの両義性についての考えを誘う。待つことの不毛や不快はさておき、何かをするあてを失って虚しさに覆われそうになるとき、行列の光景には多くの人がそこに価値を見出して集っているという事実が放つ確かな出来事性があって、暗闇のなかに灯る一筋の光のように感じられるときがある。先程こなしてきたばかりの「映画館で映画を見る」という行為が自宅で配信で見るのとまったく違う価値を持っているのも、結局はそのような機制によるのではないか。しかしまた裏を返せばそれは他人に価値判断を委ねる群衆心理そのものという感もあって、想念はその両極を意味もなく振幅する。
坂を登りきった交差点では、モンクレールの店舗前でいかにも業界人という感じの壮年男性三人が新着アイテムの撮影をしており、その様子を信号待ちをしていたウルトラライトダウンに眼鏡の地味な出で立ちの女性が微妙な表情で見つめていた。その様は推しの有名人を見つけたときのような高揚を感じさせ、しかし業界人三人は個々には有名というわけではなさそうだったので、業界人による店頭での撮影という出来事や生態を目撃していることそれ自体への曖昧で抽象的な高揚なのかもしれなかったが、あるいは外見からは予想できないが当人も業界の影の実力者で、知り合いをたまたま目撃して声をかけるか迷っていたのかもしれない、などと妄想を膨らませた。しかし、そのような妄想は偏見と陸続きであるようにも思え、いずれにせよ〈表面〉をなぞる遊歩者の想像がしばしばや貧弱で狭隘な社会的想像力に起因する危うさと混濁していくことに自嘲めいた感覚を抱く。
それからもっと足を伸ばして国立競技場のほうまで行こうかとも考えたが、悪名高い宮下パークを超えて表参道への道が見えてきた辺りで集中力が切れてきたため帰路につくことにした。その道程を意味もなく逐一書き起こし、書かれた文章の質は二の次にただ書くことの愉楽に浸るように進めてきたこの筆記行為もまた、もう一つの遊歩として楽しめたのだが、こちらのほうも集中力が切れてきたのでここで打ち止めとしたい。明日は妻と子が戻ってきて、育児の日々の再開となる。まだまだ先は長い。