2025. 10.☓☓.-11. 1. 折り畳み、襞、スナップ

autoishk
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公開:2025/11/2

 沸き立つ水面に投じられた無数の線が放射状に捻じれ、やがて折り畳まれて沈んでいく。雨の休日の午後。しとどに降り注ぐ雨音を窓ガラス越しに聴きながらパスタを茹でていると、背後では妻が乾燥機に掛け終わった洗濯物を折り畳んでいた。折り畳む、plier、pliage。そういえば大学に入りたての頃、初対面の私に対して「ドゥルーズの『襞 Le Pli』はもう読んだ?」と、新入生歓迎会の居酒屋の席で黒尽くめの彼は唐突に言い放ったのだった。鮮烈な一言だった。それは一学年上の先輩たちが企画した飲み会で、ある男性の先輩の一人が現象学についての話題を差し向けられ、解説を披露した時だった。哲学や思想に淡い憧れを持ち、ありきたりな高揚に駆られた新入生は、週五で居酒屋バイトに勤しむ幹事や、インカレのテニスサークルと性愛に明け暮れる先輩たち、好きな作家はと聞けば東野圭吾と返ってくる同級生らに取り囲まれ、ありきたりな傲慢さ故に半ば幻滅しかけていた頃、突然現象学の話を差し向けたのは、おそらく授業でその語を聞きかじったであろうテニサーの女性の先輩だったか、クラスで「歩く辞書」と呼ばれているらしいその先輩は、共学の教員養成系の進学校で培われたであろう鷹揚な物腰で華麗に解説してみせ、私は「ああ、大学に来たんだな」と思った。そして数カ月前に受験国語の問題文で読んだ現象学批判のテクストを思い出し、身を乗り出して賢しらに早口で会話に加わったのだった。それはたしか初期デリダによるフッサール批判を下敷きにしたテクストで、ある経験を忘却から救うための記録行為は経験を記号によって代補する営みであり、やがては記号を代補するさらなる記号を要請し、無限後退に陥るといった内容だったが、フッサールやデリダの著作を読んでいたのではなく、まして研究者による解説本を通しで読んだのですらなく、現代文の出題文の二頁程度の文章に基づく不確かな知識で、それを我が物顔で語ってみせる態度は今振り返ると赤面を免れ得ないものだったが、しかしその何倍もの早口でさらに割り込んできたのが彼だった。そうして彼はドゥルーズの『襞』とその下敷きとなっているライプニッツ哲学について猛烈な勢いでまくし立て、大学入学を機に知への扉を開きつつあることへの陶酔に浸っていた私への、それは強烈な横面への一撃となった。それから後、級友となった彼を私はこのささやかな挿話で繰り返し茶化し、また今も性懲りもなくそうしているのだが、それを苦笑いで見つめていたはずの背後の先輩たちの顔も今は遠く茫洋としている。

 後に「鴉」と仇名されることになる彼は、合宿や学園祭のような外向的なイベントの続く新入生の日々において危うく奇人扱いされかけながらも、蓋を開けてみれば驚くほど自然にクラスの輪に溶け込み、数年後に転居したとき、引っ越し作業の手伝いを求められた同級生たち数人は喜んで快諾した。着いてみるとその新居はオートロック付きの築浅の1LDKで、すでに引っ越し自体は終わっていたが、最低限の家具だけが置かれた無機質な室内の壁にはおそらく数千冊はあるであろう夥しい数の本が、段ボール箱に詰められ、一部ははみ出して床にうず高く積まれていた。地方から上京しバイトもしていなかった彼に、恐らく6桁はするであろう家賃とともに湯水のように本に金を溶かすことのできる生活を可能にするだけの仕送りをしている彼の実家は相当に裕福なのだろうと窺えた。デリダやドゥルーズのようなポストモダン思想のビッグネームに飽き足らず、その蔵書は一つの宇宙だった。彼がルーマニア三兄弟と呼んで敬愛していたシオラン、イヨネスコ、エリアーデ。これまたレイモン兄弟と勝手に兄弟扱いしていたレイモン・クノーとレイモン・ルーセル。思い返すに平凡社ライブラリーのその本よりも彼の部屋自体の方が「ロクス・ソルス」と言うべきだったが、それからゴンブリッチとアビ・ヴァールブルグが並び、ベケットとジョイスが並び、その下にはロバート・キャパ展からザオ・ウーキー展までの美術や写真の展覧会カタログが散乱し、果ては複雑系や圏論などの文字が踊る私にはよくわからない数学書や理工書の数々までもが混在する、その膨大な蔵書の整理を私たちは手伝わされ、半ばその物量の知識が詰まっている彼の頭脳の宇宙に圧倒されながら段ボールを開閉し本を運んでは室内を行ったり来たりし、彼の指示に従ってあくせくと立ち働き、段ボールが尽きるまで本棚に詰めていった。作業の間中、室内にはクセナキスの不協和音が不気味に鳴り響いていた。

 ふと見ると、傍らには裁断機とScanSnapが置かれていた。話を差し向けると、彼はそれがいかに研究に必要であるかを力説し、同級生である私たちにデモンストレーションして見せた。本を買いすぎて床が抜けそうだから一部は「自炊」してデータに変換するより仕方ない。PDFにしてタブレットに入れておけば出先でも数十冊を一度に読める。OCRをかければ検索などもできて便利だ。けれどもこれだけの量があるから際限がなくて困った、等々。自慢であることが明らかでありながら自慢に聞こえない独特の暗さと洒脱を併せ持つ彼の自嘲に満ちた口ぶりは不思議と不快ではなく、一堂はただ笑って聞いていた。ちょうどこれから自炊する予定だったと言いつつ彼は、手の届くところにあった一冊の本をおもむろに持ってくると、まず本の背表紙をカッターで切り裂いた。四六判の書籍は、背表紙を裂かれるとその箱状の形態のなかに折り畳まれていた紙葉がほどけ、剥き出しになった。彼はそれを手慣れた手つきで裁断機にかけ、スキャナーでスキャンできるサイズに整える。そうして多数の頁たちは、スキャナーの黒い躯体に次々と吸いこまれ、内部から仄見える青白い光を透過されてデータへと昇華されては吐き出されていった。

 snap、それは彼の身ぶりを思わせる語でもあった。彼は考え込んだり熱弁を振るったりするとき、手首にスナップを効かせた独特の曲線的な動きを見せた。その動きが現れるとき、彼のその頭脳が高速で回転して自説を組み上げ、ひとつの言説世界が立ち現れる。ある時、その同じ身ぶりが、まったく別の人間の手にも現れることに気づいた。動きの主は、いまは名の売れた歌人かつ小説家となった別の女性の先輩だった。私自身はその人とは結局親しくなることはなかったが、狭い大学内では自然と授業やら何やらで顔見知りになることも多く、共通の知人の撮った映画の上映会だったか何かのイベントの打ち上げの席で居合わせ、初対面としておぼつかない会話を交わしていたその時、その人がやはり何かを語り、口吻が熱を帯びてきた頃、その手がスナップし、黒い袖に覆われた彼の手のあの動きと重なった。男性と女性。地方出身者と関東出身者。年齢と経済的水準こそ似通っていたかもしれないものの、属性の異なるまったくの別人に同じ身ぶりが寄生し、その口を借りて言語を運んでいるように思え眩暈めいた感覚に陥った。

 正確に言えばその人は今ではたしか性自認をめぐる葛藤を明らかにしていて、だから「女性」という属性を安易に与える記述はミスジェンダリングにあたり不当かもしれなかった。現実においては身体は透明ではなく、人種やジェンダーをはじめとした様々な特徴をまとっているが、それを感取しつつ名指さないでいることができる。しかしテクストのなかでは人々を出現させるためには言語的な名指しによるほかなく、その人の持つ雰囲気を思い描こうとする試みはしばしば安易な属性記述に靡きがちであって、そのような時、己の持つ言葉の貧困と、それが随伴しうる暴力性に身動ぎざるをえない。翻ってしかし、一見してまったく別の属性を持つ人々の間に同じ身ぶりや表情の要素が現れるのを目の当たりにするとき、世界を小綺麗に区分けしているかに見える諸属性のなす表層の奥に折り畳まれた世界の奥行きが意外な相貌をもって立ち現れてくるようにも感じられる。それが果たして襞ということなのか、否か。

 MLBのワールドシリーズ、ドジャースvsブルージェイズ戦は、ドジャースの2勝3敗で迎えた第6戦、あとがないドジャースが山本由伸の好投と不調に苦しむベッツの待望のタイムリーなどで3対1でリードした9回、クローザーの佐々木朗希がピンチを招き、無死2、3塁で明日先発が予定されていたはずのタイラー・グラスナウがマウンドに上がっていた。絶対絶命と言えた。一つポップフライでアウトを取ると、続くバッターからレフトへの浅いライナーが放たれ、猛然と突っ込んできたキケ・ヘルナンデスが捕球と同時にしなやかな手首のスナップを効かせてそのまま二塁に送球し、ワンバウンドしたその球をかろうじて捕球したミゲル・ロハスの身体がくの字に折り畳まれて転がると、飛び出していたランナーを刺してダブルプレイの完成となり、奇跡的なゲームセットだった。明日は運命の第7戦だ。思えば『襞』は未だに読んでいない。