妻の旧友がディズニーシーのホテルミラコスタで結婚式を挙げるというので、産褥期の身体を押して出席することになり、子を預けて私も付き添いに出かけた。付き添いといっても念の為行き帰りに同伴するだけで、あいだの時間は特に所用はなかったため、思わぬ形で数時間の自由時間を得た。Youtuber・天竜川ナコン氏の「現実チャンネル」に、「現実実況プレイ 〜高ランク帯のディズニーランド解説〜」という動画がある。朝、舞浜に降り立った後、ディズニーランドに背を向けて外周をひたすら歩いた後で帰る、という内容なのだが、私もまた隙間時間で独り夢の国に入国する気はさらさらなく、少しぶらついた後、思案して向かったのは夢の島だった。
夢の島は江東区に位置する人工島で、かつて高度成長期に急増したゴミの埋め立てがなされたことで知られる場所である。私自身も幼少期に両親や周囲の大人から、「ゴミの島」のエピソードを聞かされた記憶がある。その話では東京中のゴミが廃棄された悪臭漂う負のイメージを塗り替えるため「夢の島」という名前が与えられたのだということで、具体的な写真などのビジュアルを欠いたまま伝承のように語られた夢の島は幼心に、例えばエドワード・ケアリーの『堆塵館』に描かれているような汚濁と腐臭にまみれた異形の幻想の姿を獲得していったのだったが、実際に足を運んだのは今回が初めてだった。
ただし今回調べてみると「夢の島」という呼称自体はゴミの埋め立てが開始される以前に一時期開設されていた海水浴場の名に由来しているらしい。埋め立て自体はさらにそれに先立つ1938年、現在の羽田空港に代わるより都心に近い空港としての「東京市飛行場」の建設計画に沿って開始されたが、戦後GHQが羽田空港の接収と拡張を決定したことで計画が頓挫し、結果として開設されたのが夢の島海水浴場だった。しかしこれも台風被害や財政難等で3年で閉鎖され、その空いた空間に降って湧いたのがゴミ投棄だったということらしい。
京葉線を少し引き返して新木場駅で降り、鉄道と首都高のガード下を抜けると夢の島公園が現れる。人のいないだだっぴろい芝生の広場に清掃工場の煙突がひとつ空に向かって伸びていて、曰く付きの歴史を持つこの人工島にやってきたことを印象づける。しかしまず目を引いたのは、敷地内に都立・第五福竜丸展示館が立地していることだった。第五福竜丸はいわずと知れた、1954年のマーシャル諸島・ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験によって被爆した日本のマグロの遠洋漁業船だが、夢の島に都立の歴史博物館として設置されていることは恥ずかしながら寡聞にして知らなかった。同館では第五福竜丸の船体が保存・展示されており、同船が辿った歴史が概説されている。この展示館が夢の島に立地するのは、第五福竜丸が廃船となった後、夢の島に投棄されていたためらしい。焼津港所属だった第五福竜丸は被爆後、学術資料として日本政府により文部省予算で買い取られ、東京水産大学(現・東京海洋大学)で放射能の観察が行われた後、改修を経て練習線「はやぶさ丸」として稼働していたが、1967年に廃船処分となった後、船体は「ゴミの島」のゴミの一つとなって夢の島に流れ着いていた。その事実が発覚すると保存を訴える市民運動が盛り上がり、1974年に美濃部都政下で都による展示館の建設が決定された。なお展示館の裏手には「マグロ塚」という石碑が建てられていたが、これは水爆実験が第五福竜丸の被爆だけでなく海域全体を汚染しており、多数の漁船が漁獲したマグロの廃棄を強いられたことを記憶するためのものだという。
水爆実験の被害者は日本船籍だけでなく、まずもってマーシャル諸島の住民たちでもある。この日は企画展としてマーシャル諸島のロンゲラップ島を取材した展示もなされていた。アメリカは核実験の3年後の1957年にロンゲラップ環礁の「安全宣言」を行い、島民の帰還を進めたが、帰還後の住民には甲状腺腫瘍や白血病などの症状が次々と現れた。展示によれば、アメリカの医療調査団は放射線の影響が依然として残ることを把握していながら、放射線の人体への影響を観察するため、いわば人体実験としてあえて島民の帰還を進めたらしい。その事実は広島への原爆投下後に設置されたABCC(原爆障害調査委員会)などと同様の米国の強烈な非人道性を感じさせるとともに、人権や民主主義の理念を掲げるはずの大国の偽善と残酷さによって弄ばれる島嶼の人びとの痛ましい命運を思わせる。
水爆実験をその極致としつつ、より広い文脈としては帝国主義下で翻弄される島嶼部の人びとの生命と暮らしという問題があるように思う。石原俊『〈群島〉の歴史社会学』などに論じられているとおり、群島というトポスは近代世界の矛盾が表出する周縁部である。国民国家が大地の領有を基盤とするのに対し、海は国家的秩序を逃れる自由域であり一種のアジール的空間であった反面、群島は膨張していく帝国主義的資本主義の体制下で、資源の偏在や国防の要衝といった地政学的要因から列強による編入や占領を被り、そこで暮らしていた住民たちの生活は否応なくその力学に巻き込まれていく。事実マーシャル諸島は、度重なる帝国主義列強による支配の交代の歴史を経てきた。すでに16世紀には大航海時代のスペインによって発見、領有宣言を受け(たものの放置)され、18世紀末から19世紀にかけては大英帝国の手が及び、19世紀末には英独間の密約を経てドイツの保護領となる。日本も無縁ではない。第一次大戦に参戦した日本はマーシャル諸島を占領し、戦後には委任統治領として獲得している。その後の第二次大戦ではマーシャル諸島を含む太平洋の島々は戦場となった。大日本帝国は資源を求めて南方に版図を広げつつも、真珠湾攻撃以後、対米戦争の激化に伴い絶対国防圏へと撤退を迫られていく。そのなかでマーシャル諸島は絶対国防圏の枠外と位置づけられたものの、日本海軍は同諸島で米軍を迎え撃つプランに固執していたらしい。しかし米軍の飛び石作戦によって準備の整わぬまま戦闘が発生し、多数の戦死者を出した。やがて大戦後、アメリカの国連信託統治領となったものの、冷戦下で核開発が加速し、1946年から1958年までビキニ環礁での水爆実験が行われ、「死の灰」の降り注ぐ甚大な被害を被ったことは知られるとおりである。そもそもマーシャル諸島という名からして同諸島を「発見」したイギリスの航海士ジョン・マーシャルに由来しており、国名という象徴的な要素さえ列強という他者に簒奪されていることの意味は重い。先進諸国から遠く離れた群島において、ヤシやパンノキ、ヤシガニや海鳥などを糧として営まれていた住民たちの平穏な生活もまた、彼らの預かり知らないところで高速度に展開する資本と権力の影響と無縁ではいられない。資本主義と国家をその両輪としてすべてを飲み込んで増殖していく近代の論理は、ある日突然「死の灰」のような苛烈な暴力となって周縁部に降り注ぎ、その環境と生活を破壊していく。
規模や強度は違えども、夢の島という場所もまたその点では通底しているように思う。夢の島へのゴミの埋め立ては、高度経済成長に伴って急増した廃棄物のはけ口として、所有者のいる大地とは異なる人工島が着目されたからであり、廃棄物がもたらす悪臭や腐敗のような公害は近代の影の部分にほかならず、それが周縁部で歪んだ形で噴出する構造はマーシャル諸島のそれと響き合っている。その意味で、第二次大戦後、日本からアメリカに引き渡されたマーシャル諸島沖で第三の被爆を受けた第五福竜丸が廃船として流れ着いたのが夢の島であったというのは象徴的である。
第五福竜丸展示館を出ると、夢の島熱帯植物館に向かった。途上ではユーカリや楓、金木犀などの木々が雑木林をつくり、緑のなかに黃や橙の秋の色づきを見せていた。人間たちの欲望の暗部として排出された無数の廃棄物によって汚染された土地の上に自然が再生し、人工島を覆っている。そんな再生がなされたのは、夢の島の公園化によってだった。ゴミの埋め立ては1957年から1967年まで続き、悪臭やハエ、ネズミ等の公害が社会問題化すると、紆余曲折を経て、東京内のすべてのゴミを一箇所に集約するのではなく各区に清掃工場を配置する体制への再編がなされた。夢の島には江東区の清掃工場を新たに建設する代わりに公園化を行い、清掃工場の余熱を利用した温室、体育館、水泳場、競技場、野球場の5施設を建設することが約束され、1978年に遂に夢の島公園がオープンした。その温室というのが夢の島熱帯植物館である。大人250円で入場でき、カップルや学生など一定の訪問客がありつつも、例えば新宿御苑の温室などと比べれば圧倒的に空いていて、それでいて質量に劣らず、楽園のような施設だった。タイリンヒメフヨウ、ヒカゲヘゴ、ベニヒモノキ、ゾウタケ。乏しい知識ながら、生活圏では見かけない植物に出会うのは楽しい。「裏星」という、シダ植物門の科があることを知り、シダの葉の裏の胞子嚢群を多数の星に見立てたのが由来らしいのだが、素敵な言葉だと思う。バナナやマンゴー、カカオ、パパイア、ドリアンといった馴染みある食用植物や、ウツボカズラなどの食虫植物も並ぶ。しかしなかでも印象深かったのは、パンノキやヤシなど、ついさきほどの第五福竜丸展示館で知った、マーシャル諸島に生育する代表的な植物が温室のなかにも見られることだった。それは遠い太平洋沖の群島の植生がこの人工島に移植されているようで、ここでも夢の島とマーシャル諸島とのあいだに生じている符合に、ある種の眩暈を覚えるようであった。館を去る頃には朝から覆っていた曇天が半ば去り、青空を背に郷愁を誘う西陽が温かく射し込んでいた。それはこの人工島に堆積した夢の塵芥の数々に思いを馳せるよう誘っていた。
妻は夢の国、夢の海での親しい友人の結婚式を存分に楽しんだようだった。米国と資本主義の極致であり、万国博覧会の後継であり、現実の世界を娯楽の夢のなかに転写してつくられたテーマパークは、結婚式という儀礼の場になによりもふさわしいのかもしれず、そこで過ごされた当人たちの夢のひとときはそれとして手放しで尊重すべきと思う。他方、その対岸に浮かぶもう一つの夢の地である夢の島に堆積した歴史は苦みを伴っている。そこでは、愉快に踊るキャラクターの鼠ではなく現実の薄汚い鼠たちがかつて汚汁と腐敗の間をかけずり回っていた。その「ゴミの島」としての姿は現在では様変わりしているが、大量の塵芥とともに流れ着いた第五福竜丸の船体を遺すことを決め、人工島全体の緑化・公園化による再生を決めた美濃部都政もまた、55年体制のもと保守政党が国政を牛耳り続けたこの国における革新政治の夢でありその廃物であると言えるのかもしれない。
夢の島、それは戦後日本の高度成長という夢が産み落とした廃物が行き着く場所であり、公害という近代の暗部が露出する周縁の一つであり、そしてその構造においてマーシャル諸島のような他の世界の群島と呼応する場でもある。夢の裏面にはつねにそれとともに放逐された廃物があり、またやがては夢それ自体が廃れて塵芥へと帰していく。そこには遺棄と放逐の歪んだ諸力が必然的に伴う。けれどもその塵芥の堆積の上にはやがて植物が芽吹き、汚染された土壌を覆うようにして再生が遂げられていく。うまく言えないが、私たちの生の歴史も、そのような否応ない力に翻弄されつつ、その繰り返しの過程のなかに息づくのだろう。