この一年ほどヴァルター・ベンヤミンの存在が妙に気になっていて、主要な著作や論文に記された思想内容だけでなく、その思想を生み出した一人の思想家の生涯全体にまで関心が及び、伝記や書簡なども含めて読み漁ってきた。ちょうどつい先日、この二ヶ月ほど読み継いできたプルーストをとうとう読み終えてしまったということもあり、ベンヤミン関連のものを再び手に取ってみたところ、いくつか発見があったので徒然に記してみたいと思う。
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まず、三原弟平『ベンヤミンと女たち』が良書だった。2003年刊行の同書はベンヤミンと妻ドーラ、ユーラ・コーン、アーシャ・ラツィスという3人の女性との恋愛関係に焦点を当てた研究書であり、そのことを通じてベンヤミン思想におけるエロスの問題を考察するものであるが、伝記的事実を解明するその優れた手捌きによって、思想家ベンヤミンの思想形成の背後に、いかに一人の人間たるベンヤミンの恋愛における劇的な自己変容のドラマが展開していたかを改めて認識することができた。
たとえばベンヤミンの性体験は1913年春(当時20歳)のパリ旅行における娼婦体験に遡り、青年運動の仲間から「カオス的恥知らずさ」と糾弾されつつも、性や売春に関する独自の考察を当時から残していたらしい。パサージュ論において自身の娼婦体験が断片的に言及されていることは知っていたが、それがこれほど早期に遡り、またそれがすでにパリであったことは今回はじめて知った。後年のパサージュ論やボードレール論における娼婦という形象へのこだわりの根を探るうえでも印象的である。
また知られるように、『親和力論』は妻ドーラとの婚姻関係が実質的に破綻し、ユーラ・コーンに惹かれていく自身の私生活の実相がゲーテ『親和力』における登場人物たちの「罪」と重ねられている。しかしそれだけでなく、この論においてはグンドルフへの痛烈な批判が行われているが、その背景的動機としては、ベンヤミンが当時恋情を向けていたユーラ・コーンをグンドルフやゲオルゲ・クライスの影響下から救い出し自身へ振り向かせたいという下心があったという。この事実もどこかで読んで知っていたはずだが意識から抜け落ちていたが、こうした改めて知らされるとベンヤミンの処世術の拙さや滑稽さをよく表している。『親和力論』が教授資格論文『ドイツ悲劇の根源』に先立ってアカデミズムでのキャリアを危うくしたことも思えば、いっそうその愚かしさは際立つ。
加えてその当のユーラ・コーンからは、「あなたの最近のお仕事すべてと同様、わたしの感じるのは、個人的なものがあまりに前面に出過ぎていて、なんだかすべてが日記のページのような具合で、そこを越え出ているものは皆無に近いということです。ご存知か、ご存知でないか知りませんが、わたしはあなた自身のことをなにか読まされるたびに、いつもいささか失望してしまうのです」と喝破されていたらしい。むろん、ベンヤミン自身は大真面目に、自身の内心に忠実に書いていたのだろうし、恋に盲目になり、高尚なはずの思索や執筆がその実、内面の吐露を通じた誘惑の身振りに変質していくのは理解できることだが、そのことを当の恋する相手に見破られている様はやはり憐れみや失笑を誘うものである。
著者はこうした人間ベンヤミンの振る舞いの一挙手一投足に手厳しい視線を注いでいる。「生き方が下手というより、つねに考えているのとは逆の結果を将来する〈ぐりはま〉の典型みたいな道化で、いささかでも世間知のあるものなら、かつてのギムナジウム時代の仲間がいったように、ベンヤミンのやったことは馬鹿げた奇妙な失敗ばかりといいたくもなるだろう。」そんなベンヤミンを著者は「大根役者」と呼び、論文やエッセイのテクストのレベルでも、一見高尚な表現がその実身も蓋も無い恋愛や金銭にまつわる高揚や苦悩に根を持つものであることを暴露している。もっとも、著者は単に暴露や脱神秘化による冷笑に終始しているわけではなく、むしろ天才思想家の根元にある生身の人間ベンヤミンの愚かしさに、屈折を織り込んだ温かい共感の眼差しを注いでいる。「だが、愛され模倣される女たちよりも恋し模倣するベンヤミンのほうに、あるいは、滑稽視する男たちよりも滑稽しされるベンヤミンのほうに、やはり可能性があるように思えるのだ。利口な人たちにとってはこうしたベンヤミンの姿に可能性などないだろうが、つくづく自分は能なしのバカだと思い知らされつづけているものにとっては、ベンヤミンの目を奪うような才能にではなく、ベンヤミンのバカなところに連帯感をおぼえ、大袈裟にいえば、そこにのみ彼の可能性が見える」(p.200-201)
けれどもその愚かしさや大根役者ぶりは、1930年代初頭に至り、ベンヤミンの職業的・経済的基盤をも切り崩しながらあるきびしい頂点へと突き進んでいくことになる。アーシャ・ラツィスの恋愛の波乱の末、ベンヤミンはついに彼女との結婚を望み、妻ドーラとの離婚裁判へと踏み切る。その頃に書かれた断章の一つに、「短き影」というものがあるという。
「正午に近づいたころ、影たちは事物の足元で黒い鋭い縁になり、音も立てずに不意に自らの棲家に、みずからの秘密のなかに引きこもろうとし始める。そのとき、かがみこみ、ひしめく充溢のなか、ツァラトゥストラの時、思索する者の時が、「生の正午」に、「夏の園」にやって来ていた。なぜなら認識も、太陽のように、その軌道の頂点で、事物の輪郭をもっともきびしく刻むからだ」
ベンヤミンにとっての「生の正午」が刻む陰影のきびしさは離婚裁判の泥沼化として表れ、ベンヤミンはその財産の大部分を喪い、自身の性生活を衆目に暴かれる屈辱を味わい、文字通り零落していく。そして40歳の誕生日を迎える1932年の夏、自殺を決意するのである。この自殺はしかし未遂に終わる。「はたしえなかったにせよ、自殺へと自分をここまで追い込んだこの時が、やはりベンヤミンという人間の「生の正午」、彼の人生の〈中仕切り〉をなしていたのであろう」。
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『ベンヤミンの女たち』が印象的だったぶん、しかし個人的には「生の正午」のその「後」が気になってくる。それはちょうどパリでの亡命期と重なる。ドイツでナチス政権が誕生した1933年以降、ベンヤミンは1940年のピレネー山中のポルトボウでその悲劇的死を迎えるまで、ブレヒトが拠点としていたデンマーク・スウェンボルやスペイン・イビサ島のドーラの下宿所への滞在を挟みつつも、基本的にパリで亡命生活を過ごした。そしてそこで『パサージュ論』に、そしてその「ミニチュア・モデル」と呼んだボードレール論に取り組んでいく。
もっとも恋愛という点に限って言えば、この時期にはドーラ、ユーラ、アーシャといった明確な恋愛対象は存在しない。三原によれば、「1933年以降の彼の異性愛は、もはや想像域での幻想として発現するのみ」である。しかし狭義の恋愛とは異なりつつも、それと関連するような興味深い事実に最近気がついた。それはこの時期の友人アドリエンヌ・モニエがレズビアンだったということである。
アドリエンヌ・モニエ(Adrienne Monnier)は、パリでの亡命生活のなかでベンヤミンがとりわけ頼りにしていたフランス人の友人の一人である。彼女はオデオン通り7番地に書店「本の友の家」を開き、ヴァレリーをはじめ大物作家たちとも関係を築き、戦間期の文学・文化の担い手となった人物であり、ベンヤミンはモニエとの交流を通じて、同時代のフランスの文学の動向への見識を深めたと思われる。またベンヤミンが自死の直前、1939年9月~11月に一時、敵性外国人として収容所に収容された際には、モニエの尽力が早期の解放につながった。書簡の端々でも、モニエへの信頼が篤かったことが伺える。
そのモニエについてうっかりしていて今まで知らなかったのだが、どうやらレズビアンだったらしい。例えば、モニエは今では観光名所となっているパリの英語系書籍を扱う書店シェイクスピア&カンパニーの設立にも協力しているが、その設立者シルヴィア・ビーチとモニエはビーチと恋仲でもあった。ベンヤミンの書簡集にはビーチも時折登場する。また、もう一人の共通の知人であり、国立図書館で作業するベンヤミンを写した写真を残しているジゼル・フロイントもモニエと恋愛関係にあったという(それだけでなく、ジゼル・フロイントとのアヴァンチュールがモニエとビーチの恋愛関係に終止符を打ったという事情らしい)。ベンヤミンのパリ亡命時代の交友関係には、モニエを中心としたレズビアンの女性たちとの友情が重要な位置を占めているのである。
おそらくこのことは、ベンヤミンの当時の思考という文脈では、単なる友人の性的指向という以上の意味を持っていたと考えられる。当時のベンヤミンはボードレール論を構想していたが、そのボードレールには「レスボス」という詩があり、これが一時は『悪の華』の表題の候補ともされていた。よく知られるように、レスボスはサッフォーの出身地でもあるギリシアの島であり、古代ギリシアにおいては同地で女性同性愛が盛んに営まれていたとされることから、レズビアンの語源となった。「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」では、ボードレールにおけるレズビアンを近代の「英雄」の一形象として位置づける考察に紙幅が割かれている。また「セントラル・パーク」には「レズビアンの愛は、精神化を女性の胎内にまで推し進める。妊娠も家族も知らない〈純粋な〉愛という百合の旗印をそこに立てるのである。」といったメモも見られる。
実は三原の前掲書によれば、ベンヤミンの性愛観には、女性同性愛へ独特の位置づけが見られるらしい。1916年頃に成立したとされる小文「ソクラテス」では、ソクラテスの性愛観を、性愛をヒエラルキー的に捉え、ゲーニウスを頂点としつつ異性愛、男性同性愛と来て女性同性愛を底辺に位置づけるものとして痛烈に批判する一方、グルーネヴァルトの祭壇画ーーこれをベンヤミンは1913年にわざわざコルマールに観に行っており、その後複製を部屋にも飾っていたらしいーーに「表現なきもの」としてのゲーニウスを見てとりつつ、これを女性性と結びつけ、ソクラテスのヒエラルキーを転倒させて女性同性愛を最上層に位置づけている。その意味ではそうした性向を晩年も発展させていったといえるかもしれない。
もっとも、今日的な感覚からすれば、これは男性が女性同性愛を神秘化する典型的に問題含みな視線という側面は否定しがたい。むろんベンヤミンの著述は相当に錯綜しており必ずしも単純化できるものではなく、またモニエからは「ボードレールは男性好みの作家だ」いった指摘ーーそれはボードレールの位置づけへのある種の相対化を迫る含意を持つだろうーーを受けて検討した形跡もあることからすると、ベンヤミン自身色々と反省を進めていたとは思われるが。
しかしベンヤミン自身の女性同性愛に関する考察そのものの是非はともかくとして、上記のような事情を踏まえると、ベンヤミンがボードレールにおけるレズビアンの形象に拘る背景には、モニエやフロイントとの友情があったことは疑いないように思われる。ちなみに「物語作者」には、ヴァレリー「マリ・モニエの刺繍」というテクストへの言及があり、物語作者が生まれてくる「手仕事の圏域」を表現するものとして評価しているが、マリ・モニエ(Marie Monnier)とはアドリエンヌの妹のイラストレーター・刺繍作家であり、間接的に自身のアドリエンヌ・モニエとの友愛の表出となっている。ボードレールにおけるレズビアンに拘泥するのも、それと同様の暗号めいた所作であるように思われるのである。より踏み込んで言えば、レスボスの女たちを英雄に仕立てたボードレールにベンヤミンは自身を重ね合わせていたとさえ言えるかもしれない。そうであるならば、その重ね合わせは同時に、ボードレールやブランキが克服できなかった19世紀という永遠回帰の地獄を超え出る目覚めの予感へと向けられているはずだ。
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だからその地獄からの出口が死という形をしか取り得なかったのは、やはり悲劇的と言って良いだろう。
リーザ・フィトコ『ベンヤミンの黒い鞄 亡命の記録』には、ベンヤミンの最後の日々が記録されている。そこには興味深いエピソードが見られる。フィトコの夫ハンスがベンヤミンとヌヴェール近郊の収容所にいたとき、ベンヤミンは禁煙を試み、その苦しみをハンスに語っていたという。ハンスは、収容という危機に耐えるためにはいつも喜ばしいことを探すようにすべきで、わざわざ苦痛を増やすべきではないと説得しようとした。しかしベンヤミンは次のように答えた。「収容所の状況に堪えるためには、何か一つの無理を自分に課して、それに精神力をありったけ注ぎ込まざるを得ないようにする、自分としてはそれ以外に方法がない。タバコをやめることはそれだけの無理を課すことになる、だから救いなのだ」と(p.168)。
ベンヤミンが命よりも大切と語った原稿を入れた黒い鞄は、ベンヤミンの決死の覚悟もむなしく、結局散逸してしまった。中身はおそらく「歴史哲学テーゼ」のヴァージョンだったと推測されている。しかしこのエピソードにふれるにつけ、黒い鞄の中身は問題ではなく、心臓の悪かったベンヤミンが亡命のためピレネー山脈の急峻な山道を行くに際しても黒い鞄を手放さなかったこと自体が、彼が救いを求めて「自分に課した無理」だったように思える。いずれにしてもそれは亡命のチャンスやその後の執筆の可能性を含めて長期的な天秤にかければ決して合理的とは思えず、その意味でその前半生において繰り返された滑稽な愚かしさの再現であるようにも見える。しかし同時に、思想家としてのベンヤミンの生からすれば、それはぎりぎりで生き延びるための必然的な選択であったようにも思われる。
彼が自死に踏み切ったのは、ピレネーの山脈越えに失敗したからではなく、かろうじて成功してスペイン側の村ポルトボウにたどり着いたにもかかわらず、出国ビザがなかったために送還が決定したためだった。そしてその出国ビザをめぐる方針は、偶々その直前に通達されたものにすぎなかった。