こねこちゃん(ヤオンイ)、こっちおいで。そうそう、こっち。おやつ食べる?
彼女はこの丸い瞳を見て確かにそう言った。この丸い瞳もまた彼女を見た。何十年と時を経ても覚えている。この透明なふた粒の丸い瞳が記憶している。瞬きをするごとに、彼女の姿を映し出す。
この丸い瞳が見ていたのは、いつも窓の向こうで群がっているいきものたちの織りなす、奇妙で不思議な眺めだった。この丸い瞳は、時折目の前に差し出される飲み水や食べ物によって、そのいきものたちが人間という存在だと知った。さらに、人間たちの言葉を覚えてから、断片的に知った知識を繋げることで、以下のような人間界の事情を把握した。
その昔、茶房(タバン)といえば文化人や芸術家のアジト、行き場のない人びとの憩いの場だった。だいたい照明は薄暗くて、椅子も机もカウンターも重厚感のあるどっしりした作りをし、長居に耐える。人びとは、店で飲むコーヒーというものを、現代のように小洒落た飲み物としては認識していない。あくまで場所代を支払う代わりに購入するものなのだ。吐く息まで甘ったるくなるインスタントコーヒーを入れた紙コップ片手に、革張りのソファに腰掛けて、時には大声で、時には密やかに話し込む。
今風のチェーンのコーヒーショップが増えてからというもの、茶房は徐々に姿を消していった。いや、消してはいなかったけれど、真っピンクの看板が目印の性風俗店へと変容していった。茶房で働く女性たちはタバンアガシ(茶房のお姉さん)と呼ばれて、コーヒーの注文を受けると風呂敷包みに魔法瓶とカップを入れてバイクに乗り、届けに行った注文先で客の話し相手になる。後の時代には、茶房といえば猥雑としたイメージが付随することになる。だけれど、これからこの丸い瞳が物語るのは、純喫茶としての茶房、健全な文化交流の場における出来事である。
キム・セファ──あの有名なキム・セファではない、と多くのひとは言った、どのキム・セファか知らないけれど──は、短く切り揃えた髪に、当時の価値観では男っぽくて反抗的だとされたジーンズを履いて、上着のポケットに両手を突っ込み、肩で風を切って街を歩いていた。人間たちの忙しない経済成長の奔流のなかにまだ戦後の混沌が入り混じっていたその時代、頻繁に茶房に出入りした音楽家のひとりだった。
彼女は男ばかりの音楽仲間の集いによく顔を出した。変わり者と思われていたようだけれど、彼女が好きな音楽について語り出すと、みんなそんなことは忘れて話に花を咲かせた。彼女には他人を巻き込んでゆくエネルギーがあった。
彼女の寝ぐらについていったことがある。狭くて湿っぽく暖房の効かない半地下だった。この頃、大規模な住宅供給のために宅地開発地には多くの低層マンションが建てられたが、彼女が転がり込んだのはそういう類の住処ではない。ひと昔前、北韓からの爆撃に対する措置として設置が義務付けられたことで普及した地下室だ。この丸い瞳にとっては散歩道や遊び場に等しい、見慣れた光景だ。人間は定住するいきものだから、入り組んだ団地を歩けばそこらじゅうにうじゃうじゃ居て、毎日同じ場所で同じ行動を繰り返している。このところ、ソウルは以前と比べて明らかに人口が増えた。半地下生活の人間も多い。
貧しいくらしの彼女がどうして文化人の男ばかりで構成されるDJの一員になれたのか、この丸い瞳の記憶にはない。それは彼女とこの丸い瞳が出会うずっと前のことだ。だけれど、いつか彼女がほろ苦い表情で溢した言葉から察するに、彼女には、彼女の身体しかなかった時代があった。
その日も、この丸い瞳の眼前に差し出される食べ物を目当てに彼女の様子を窺いに行くと、ちょうど茶房の前で誰か見知らぬ男と話しているところだった。口ぶりからして、男が彼女を呼び止めたようだった。
「おまえ、いつもカウンターに居る女じゃないか。ホステス(タバンアガシ)なら、俺のところに来て相手してくれよ」
人目も憚らずそう言った男に、彼女は微笑みとともにこう返した。
「残念だけど、あたいはDJだよ」
続けてこう言う。なにをかけようか、後でリクエストしてよ。注文がないならこちらで決めるからさ。サヌリムのファーストアルバムなんてどう?
それが彼女の決め台詞になった。この丸い瞳が見守るなか、彼女は颯爽と店内へ入ってゆく。つられるように男も入店していった。この丸い瞳には、彼女の微笑みが印象深く映った。彼女は男に何を言われようが、男性に対する女性の所作として微笑まざるを得なかった。一介の音楽家であれば真顔で否定すればいいことを、社会の歪みが彼女に微笑ませた。なぜなら彼女は音楽家として評価される以前に、痛々しい、張り裂けそうな、あるがままの、おんなだったからだ。それが当たり前の時代だったからだ。この透明なふた粒の丸い瞳は、その姿をただ映すだけだった。
彼女がレコード盤を選び取り、店内に流し始めた。口惜しいことにこの丸い瞳は音楽のかたちを記憶しない。だが、秀でた両耳は聴いていた。瞳と同様に、耳もまた多くの物事を聴いた。キム・セファは混沌としたサイケミュージックや複雑でプログレめいた音楽を好んだ。多くの地域でそうだったように、この国もまたそうした難解な音楽の坩堝だった。彼女の選曲はしばしば有名な歌謡曲を目当てに聴きに来た客の顰蹙を買ったけれど、日に日に密かなファンを獲得してもいた。
でもキム・セファはある時突然消えた。出家、家出、長い旅。彼女ならそのどれも有り得た。でも誰にも何も知らせず、ぱったりと茶房に来なくなった。よく通る道端でさえ彼女に出くわす者はいなかった。ついには彼女の母親にまでその話が伝わり、部屋を訪れてみたらもう既に別の住人が住んでいた。音楽仲間たちは心配したけれど、移り気な彼女が勝手気ままに拠点を変えたのだろうと、次第に彼女の空席は別の誰かによって埋められていった。
ただし、このふた粒の透明な丸い瞳だけは、彼女を見つめていた。彼女はこの丸い瞳の目の前に、いつでも食べ物を差し出した。それで、この丸い瞳はその背中を常に追っていたのだ。ある時はバイクに乗り、ある時はトラックの荷台に乗せてもらい、そして最後にはあてもなくただ道を歩く。
彼女の持ち物はリュックサックに詰めた着替えと、手に持ったぼろぼろのギターケースだった。食いっぱぐれそうになるとどこでも皿洗いをしたし、どこでもギターを弾いて、路銀を稼いだ。
こねこちゃん(ヤオンイ)、こんなところまで来ちゃったね。今夜はどこで眠ろうか。
季節は冬だった。半島の南端の街で海を眺めながらギターを奏でていたキム・セファは、ふと手を止めてそう言った。港に吹く風は冷たい。風のなかに、白い粒が混じっている。夜には雪が降る。もうほんのすこしだってこんなところには居られない。なのに彼女は動かない。この丸い瞳は彼女を真下から見上げた。抱き上げられて、ぼろぼろのコートとほつれたマフラーの中に包み込まれたのだ。
陽が暮れかかっていた。彼女の指先は空の色と同じように赤く染まっている。いまこの瞬間、時間の流れに粘度があるならば、茶房のインスタントコーヒーのようにどろりとしたものに違いない。我々ふたりの中心で、時は静止しつつあったのだ。
この丸い瞳は彼女に関心を抱いて道程を共にしてからというもの、傍らの人間の弱った姿をついぞ見たことがなかった。その彼女が夕焼けを焦がれたような目で見ながら、瞳をきらめかせている。
あたいは負けたんじゃないよ。好きでこうしているんだからね。あなたが好きなように生きるのと同じように。そうでしょ、同じはずだよね。
その言葉を残してすぐ、彼女は風のようにどこかへ去っていった。彼女のにおいは完全に消えている。海を渡ったのだ。この丸い瞳は再び独り、どこかの店の裏口でゴミを漁ったり、食べ物を差し出す人間の背中を追ったりした。どうしたわけか、化け猫などと呼ばれることもあるが、ただ他の猫よりすこし長生きしているに過ぎない。悪事を働こうとか、妖力を使おうとか、そんな人間の妄想に付き合っていられようか。そもそもこの丸い瞳の主は何を考えているか分からないいきものなのだ。過ぎ去ったことをいちいち思い返して、半地下に染み込む陰気な雨水のようにじんわりとした感傷に浸るのは人間だけだ。
しかし、眠る間に、夢を見るのである。キム・セファが語りかけてくる、あるいは、何も言わずに傍らに居る夢だ。遠くで音楽が鳴っている。夢のなかで眠りそうなほどあたたかい。実際に、この丸い瞳が閉じた瞼と瞬膜の裏で見ているのは、夢のなかの夢なのかもしれない。それは透明なふた粒の丸い瞳がまだきょうだいたちと一緒に母猫の乳を吸って、ふわふわとした和毛だけを視界に捉えていた頃のぬくもりを思い出させる。この丸い瞳は、彼女を仲間として見ていた。生き別れのきょうだいたちと同じように、あるいは守ってやらねばならないちいさな妹のように。もう出会うことのない仲間。この丸い瞳が仲間を見間違えるはずはないから、彼女といういきものはつまり、猫に生まれ損なったのだろう。しかし別れは悲しいものではない。この丸い瞳が日々当たり前のように路地や街中を眺めたり陽光にまどろんでいるのと同じく、今もまだどこかで彼女がDJをしたりギターを弾いたりしているなんてことくらい、この丸い瞳はお見通しなのである。