道端で電化製品となった知性の器が安売りされている。表象界をサーバーとして無限に近い電脳メモリ容量と思いもよらぬほどの処理速度を実現してから、人類の一部は完全に住処を移し替えようとしている。自身の脳を電化製品へ挿げ替えれば眠りを知らない計算機になれる。そう思っているのはまだ生身の脳みそを維持している純生体の者だけで、実際は電脳も眠る。夢も見る。
進歩と退廃が同時に進む混沌の街に、ひとりの老人が住んでいた。老人は「凪いだ心を手に入れられる」と聞いてしばらく前に電化製品に乗り換えた口だが、今では「手術に耐える体力があるうちにやっておきましょう」と総入れ歯を勧める歯医者のような台詞を気軽に告げた脳外科医に感謝していた。老い先短いと思っていた人生に、急に広大な時間が横たわった。とは言っても、それが幸福なことで、精神的に健全であるかどうかは知れない。「新しい脳で何かしてみよう」という瑞々しい決意で機械化を望んだわけでもなければ、若さを欲したわけでもなく、死を恐れたわけでもなかった。まだそうであったほうが他人の理解は得やすかったはずだ。
老人は、当人が思っているほど困窮してはいない。経済的に余裕があるとは言えないが、店先の花に水をやる時にひとときの安らぎを得ることはできる。寝床に身を横たえればすぐ眠りに落ち、悪夢を見ることすらない。だが、本人はその生活を望んでいるわけでもなければ、満足しているわけでもなかった。能動的に生きるのではなく、時間にずるずると引きずられて暮らしている点において不幸だった。生活共同体に所属せず、子どももいないし、心許せる友もない。生きている限り、当人にとっての人生とは、忙しなく労働に身をやつすこと以外になかった。若い頃には祖国を出て海の向こうに渡り、財を築く野心もあったが、都市を這いずり回っているうち何者かに魂を引き抜かれ、今は身ひとつで朝な夕なあがいている。今さら、人生を変える気力はなかった。必要性も感じなかった。ただ、この世に自分の理解者が存在しない以上、誰にも放っておいてほしかった。他人に理解され、他人を理解することができないのならば、せめて独りでいることが礼儀のようにすら感じていた。そうして同じ毎日が繰り返されることだけを望む。頭のなかに絡まった糸屑が詰まっているようだった。
昼の営業がひと段落した厨房で、老人はおしぼりの補充をしていた。バックヤードでは、交代を控えた従業員同士が脳を繋ぎ、営業時間中の情報を同期させていた。
「ポピアの売れ行きがいまいちみたいだね。ヒカマの味付けを変えた?」
「カニカマを入れてペナン島風に、薄餅皮の厚さはプラナカン式に変更だとさ」
「へえ、味見させてもらったんだ。美味しかった?」
「私はね。でも標準味覚から外れているからどうかな。近ごろはみな機械舌だもの」
ポピアの具の変更は老人の一存だった。地元の新聞社に勤める編集者が店に立ち寄った折、巨大企業が掲げた〈機械の舌〉の普及によって、料理から地域性や多様性、個人店の独自の味が失われつつあることを嘆いていた。老人は、自営業の売りは身近な顧客の信用しかないと考えている。これまでの味を保ち続けるのも信用のひとつなら、常連客の声に応えることもそのひとつではないかと、企業が決めつけた標準味覚から外れた味付けに変えた。ひたむきに仕事をすることは、老人にとって、この現世と自分自身の繋がりをぎりぎりで保つ唯一の手段だ。日常生活を維持することは当人が思う以上に危うい綱渡りだった。
従業員たちは作業をしている老人に短い挨拶をして、ひとりは退勤し、ひとりはホールに向かっていった。
しばらくして店先に車が停まり、老人の妹がやってきた。彼女はソフトマター・ロボティクスの専門家で、大衆向けの有機素材ペットロボットを取り扱う会社を経営している。ペットロボットの舌にはそれぞれ味覚があり、搭載された〈機械の舌〉の判断基準に従って嗜好を示す。市販の標準味覚フードを与えれば好き嫌いすることなく食べ、健康な標準体型を保ち、精神的にも安定する。売れ行きは好調で、その飼いやすさから猫や犬、小鳥など馴染みのある動物のコピー商品が人気だという。彼女の意志は明確で、純生体の動物が愛玩用として買われ、無責任に捨てられることのない社会へと改革を行うという目的があった。有機素材ロボットはぬくもりはあるが生きものではない。仮に虐げられても傷つく者は居ない。それが彼女の考え方だった。
ふたりの生まれ育った家庭では、幼い頃犬を飼っていたが、よく吠えて噛むので父親が叱責し、時には手を上げた。犬は余計によく吠え、人の手を噛んだ。犬は長生きできなかった。妹は、父親が犬を殺したようなものだという思いを抱え続けている。兄も心が痛みはしたが、彼女の負った心の傷はより深く大きかった。彼女は、長い時が過ぎても片時も飼い犬の死を忘れない。そして、動物を不幸にさせないという人生の目標に向かって生きていた。ペットロボットの電脳学習のため純生体の動物たちと触れ合う瞬間は、彼女にとって喜びの時間だ。
首元をくつろげたスーツ姿でカウンターにやって来た妹は、ジンジャーエールを一気飲みし、兄の顔を見て溜め息をついた。
「前も言ったけどね、兄さん、むかしは情熱的なひとだったじゃないか。一緒にうちで働くこともできるし、結婚や子育てをしなくたって、また別の楽しみがあるしさ。そう、人生にはそれが必要だよ。なにも楽しみはないの?」
「悪く思わないでくれ。おまえには必要かもしれないが、私には必要ないんだ」
気まずそうな様子の妹を見ているとつらかった。老人は「個人」であることに疲れ果てていた。働き蟻に生まれたかったと思ったことが何度となくあるし、人生に意味を見出すことそのものに懐疑的だった。自分の中心を支える柱が脆弱であることを、老人は心のどこかで認識していた。
「また寄るよ」
妹は外で待たせている運転手に合図をして出ていった。運転手は新聞を畳んでエンジンをかけた。いつもの光景だった。
老人は、開発が進む表象界についての記事を新聞で読むたびに、わずかながら硬化した心が弾み、表象界に惹かれてゆくのを感じていた。脳を電化すれば、生身の脳みそより表象界にアクセスしやすくなるともっぱらの噂だった。表象界は集合意識の形成する場であり、時間と空間が連続していない。睡眠時に見る夢に似ているとされる。夢との違いは、現実との差異を認識できること、「現実ではあり得ない」という明白な意識が根底にあることだという。それでいて、自身の存在は物理的に表象界に誘導可能であるらしい。感情や記憶に振り回される夢はまっぴらごめんだった。夢見ることを拒否しながら幻想の住人になれるとしたら、願ってもないことだ。しかし、表象界にはいつまで経っても行けないまま過ごした。
だから、夕闇の路地裏で、影がそこを表象界だと告げても、どうしてもそうは思えなかった。老人にとって、厨房の勝手口に出る時の薄い外履きの冷たさも、換気扇のやかましい音も、大きなバケツに詰め込んだ残飯臭も、日常とまったく変わらないものだったからだ。
それでも、影は〈脆さ〉を抱く者のもとに遍く現れる。救済のためでなく、影もまた、がむしゃらな生存のために。
その日のこと。老人が何も知らず裏口から店を出ると、相も変わらず辛気臭い建物同士の隙間に薄暗い路地が伸びていた。目線の先に大通りが見え、テータリックの見世物に歓声を上げる旅行者たちの姿がちらつく。ごみ捨て場の横の階段に腰を下ろし、老人はうなだれていた。音もなく影が延びて、老人の目の前で静止した。
「こうして耐えているのはいつから?」
急に問いかけられたので、老人は自分に話しかけられているのだとは思わなかった。こうして語りかけてくるような話し相手もいなかったので、応えず、相手の足元をじっと見ていた。そうしたことで、相手の靴が地面と同化していることに気付いた。火のないところから立ち上る煙のような影だ。老人は初めて顔を上げて見た。若い輪郭で、マントに隠された闇が大きく見える。
その姿は老人にとある強迫的な観念を訴えた。記憶が呼応し、一瞬にして老人の心は数十年前に立ち返る。老人の祖国では多くの若者が兵隊になるため必死で肉体を鍛えた。そうしなければ一人前と認められないからだ。影を見るに、義務を終えたばかりの青年のようだった。だとしたら一人前の男だというのに口の利き方がなっていない、歳上にいきなり失礼な、と憤慨する。老人の心は、厳格な規律と仁の教えを重んじる、若々しくも頑なな時代に戻っていた。現代では外見年齢は意味を成さないが、それがすべてだった時代もある。
一方で、影はどこまでも影だった。顔もなく、輪郭すらゆらめいている。無名の人型。完全なる自由の持ち主だが、存在を他者に知られることがない。が、老人にとっては、失われた光を見る心地だった。目を逸らしたくてもなぜか逸らせない。
たぶん私はあなたより歳上ですよ。影は言った。安心していい、これはあなたが望んだ出来事だから。何を言っても私以外に聞かれることはない、と。
夕方だったはずが、真夜中になっていた。大通りは夜も明るいが、路地裏はその華やかさから引き離されていた。不思議なことに寒くなかった。晴れた星空が建物の隙間から見えた。影は老人を観察していた。老人も影を観察したが、人間味というものがまるで感じられなかった。老人には、自分ばかりが深層心理まで観察されているように思える。老人は昔から社会に馴染まなかった。それでも生きるために馴染もうとした。富を得ることによって社会に居場所を見出そうとした。それ以外に生きていく方法が分からなかったからだ。努力したが、他人と心を通わせる意味と方法がどうしても分からなかった。世間の大多数はそういう者を静かに爪弾きにし、当人は富と名声を諦め、孤独と虚無を受け入れた。そうして、表情を歪めたままの皺が老人の人相となって久しい。
「よじれているんだ」
と、影が言った。老人は何の話かと訝しむ。影は説明せず、老人に、あなたはなぜ黙っているのか、と尋ねた。老人は腹が立ってきて苛立ちのままに吐き捨てた。
「誰とも余計な会話はせずに生きてきた。無駄に消耗して、腹が減るだけだ」
空腹感はずっと続いていたが、不思議と声を張ることができた。しかし虚勢だ。本当の自分を誰かに知ってもらうことができずにいたことは、このまま死ぬまで胸の内に抱えていくのだろう、と思った。
もし私が飢えていたら、あなたはあの猫にしたように施しをしてくれるか。影は突然そんなことを言った。なぜそれをと、老人は思わず掠れた声で返した。なんのことかはすぐピンときた。たまにやってくる野良猫だ。ロボットではなく純生体の、腹の大きな猫だ。
可哀想だったのではない。猫がここを餌場と認識すれば、自分を蔑ろにする従業員たちにちょっとした復讐ができるなどと思ったわけでもない。ほんの気まぐれに、誰かを生かした存在になりたかった。妹のように人生を賭すことはできないが、ささやかな行動で何者かの運命を変えたかったのだ。それが人間ではなく猫でも。善行で報われるなどとは思ってもいない。ただ、その動物は、漫然と過ごす自身とは違う生きものに見えた。生きるべくして生きるものが目の前に居るなら、一日でも長く生き延びさせたかった。
猫は学習してまたやってきた。それで数回繰り返した。自身も一緒になって残飯を食べた時もあった。従業員たちの休憩やゴミ出しの時間帯は熟知している。誰にも見つからずに遂行したはずの残飯どろぼうを、なぜ知っているのか。依然、影は答えなかった。代わりにこう告げた。
「それは昨日のことだった? それとも数十年前?」
どちらでもよかった。昨日の猫でも数十年前の猫でも同じだ。老人にとって、時の流れの先端を生きているという実感は不要だった。鮮やかな生の体感を捨てて、己の殻という入るべき箱に入った。病名がつかないだけで、病気であることは分かっていた。治してほしくはない。癒されたくはない。そうだ、何も手を施してほしくない。言うべきことは何もなかった。後は、お互いを観察する時間だった。影の輪郭の内側はやはりただの真っ黒な影で、目を凝らしても何かが読み取れるわけではなかった。ただすこし、飢えを凌いだ猫と似た感じが見てとれるような気がした。あの影は猫の同類なのかもしれない。ばかなことを考えているなと思いながら、知らぬうちに瞼を閉じた。
恐るべき速度で夜が明けた。陽が高くなって、夕方になる。日がなこんなところに座っているなんて現実ではありえない。そう思ったところで、はっと目を覚ますと、老人は休憩時間の終わりを告げに来た従業員に肩を揺すられていた。