朝から雨だった。頭痛を感じながら出勤。忙しさで頭痛をむりやり掻き消した、ように自身に錯覚させた、良くない働き方をした。
引越しのため、退去予定の部屋から荷物を少しずつ引き上げる作業をした。帰り道、新しい茶碗を入手した。最近の天気予報はよく当たるので昼には雨上がりの晴れた空も見られると思っていたが、一日中雨が続いて意外だった。曇天を鷺が重たそうに飛んでいた。久しぶりに少し団欒しながらテレビを見た。
最近の思索。
「具体」というキーワードを探りながらここ最近の創作をするなかで、日本の具体美術協会の具体美術宣言(1956)、ジョン・ケージの実験音楽、イヴ・クラインの青(IKB)などの制作背景に人的交流と近似の価値観や繋がりがあることを知った。改めて作品や作家の姿勢に向き合ってみると非常にハッとした。そして、彼らのいう「具体」とは何かを素人なりに図書館に通うなどして知ろうとしている(まるでまったく同じ思想を持つ作家らであるかのごとく十把一絡げに記述してしまったが、海外の作家はもちろん、具体美術協会内でも作家によって相違はあり、定義や取り組む姿勢が異なっていたようでその点も興味深い)(前衛でも具体であっても個人的に好きと感じない作品はあって、そのことも含め面白い)。
具体美術協会のような前衛芸術は近年再注目され、回顧展なども多く開かれているようだ。特に2022年は具体美術協会にとって節目の年だったらしい。わたし自身、今まで考えたこともない物性に対する姿勢に驚き、強い関心を抱いている。今のところ、
物質が精神の干渉を受けず、より純粋に物質(それ)として在ることを突き詰める/身体と心を対等に観察し、作品の物性と精神性を引き離す/精神より下位におかれる道具としての物質ではなく、それ自体が発している叫びをイノセントに表現するための行動が「具体」だ
という解釈で、自分にとって新しいチャンネルとして肯定的にこの活動を受け止めている。第二次世界大戦後を生きた人びとの、「精神の自由」を訴えるという当時の主張・時代の肌感覚・制作目的から、既に遥か遠い現在を生きるわたしの主眼は少なからず逸脱することを前提にお話したい。
その上で、わたしは果たして、物質・ものを心や精神と同等に、あるいはそれ以上に突き詰めたことがあるだろうか/内面の表現先としていたずらに美化・醜化せず、その物性を尊重したことがあるだろうか、と省みた。心を尊重し、心を表現しようとしたことはあるが、物質の物性を表現しようとしたことなんて一度もなかったのではないか。ひとの内面や人間性を大事に思ったことがあるのなら、物質の物性も同じように唯一のものとして大切に思わないか? と言われたように感じ、大いに衝撃だった。
たとえば作品に用いる「青」から、鬱血や憂うつ、鎮静、海や青い空などのイメージへの偏りを取り払う。青が余計な意味装飾のない、単純な青として在ることは美しい。ただ青のみが一空間を占有している。青という意味のみの美。ごくシンプルな理解としては、そういうことだと思っている。
自己目的化しない。説明しない。わたしにとってそのような具体は反芸術ではなく、今まで意識すらせず軽んじてきたものへの気づきと凝視をするきっかけとなったものだ。ここから、自分の創作に吸収できるものを最大限得るべきだという感覚をビシバシ感じる。
都合の良い自己解釈が満載だと思うが(でも過去と現在進行形の事象から何を受け取るかはわたしの自由だ)、ともかくわたしはあまりにも物性を愛さず大事にしてこなかった。その一点は反省すべきだ。でなければ、わたしはごく個人的な思い込みの世界の内側から殻をつつく雛鳥にすらなれない。主観でしか生きられないことはわかっていても、外界や他者、客観といった理解の及ばない視点にトライすらせず生きる自分自身の怠慢を許すことになる。それは何か、嫌だ。
まだまだ勉強不足なので、美術界に精通する方々からすればとんだ勘違いをしているかもしれないが、学びの途上記録としてご容赦いただけたらと思う。美術作品の鑑賞はどのように捉えても自由だけれど、歴史や各作家の考え方に対しては、言語化に際しての正確さ、正しい理解というものが必要かつ存在すると思っている。だからこれからたくさん関連書籍を読みたいし、作品にも触れたい。