街路樹の葉が落ち始めた。落ちた葉は陽射しに焼かれて枯葉になる。スニーカーの底でパリパリという乾いた音がするとこの暑いのに秋が来たような妙な感じがする。
職場は駅から徒歩十分余りの商店街に軒を連ねる新興事業所だ。この商店街は遠い昔、繊維の卸売問屋街としてまちが栄えていた頃、人流の中心として隆盛を誇ったらしい。まちに残った最後の百貨店・高島屋が先日約半世紀に渡る営業を終了し、商店街のまんなかには大きな空っぽのハコだけが鎮座している。
ところがこの商店街にも、数年前から名古屋の大須にありそうなおしゃれな古着屋さんが増え、美味しいご飯屋さんが増え、ものづくりの街らしくアトリエや工房もちらほら増え始めている。かつての繊維街と言ったが、仕事をやめず今でも営業しておられる古い服飾店はいくつも存在するし、そのような新旧入り乱れたところがこの商店街、ひいてはこのまちの特徴だと思っている。
お気に入りの場所がある。ロイヤル劇場ビルという、これまた古いミニシアターの入った小さなビルだ。その二階が、無料で誰でも使える休憩スペースになっていて、空調も効いているし机も椅子もあり照明も適度に明るく、ラジオの音楽を垂れ流しにしていて心地よい。
窓には「柳ヶ瀬日常ニナーレ」という地域イベントのサイケデリックなポスターが貼ってある。
慎ましい本棚があり、話題の漫画本から社会学的なテーマの単行本、地元の歴史書などが置いてあって、借りられるのかは不明だが休憩スペース内で自由に読むことができる。
自分はそこから徒歩一分のパン屋をよく利用する。休憩スペースに行って、パンを食べながら昼休みを過ごす。二階の休憩スペースからは、パン屋に出入りする人たちの姿がよく見える。パン屋と同じ建物のなかに、先日開拓したばかりのスパイスカレー屋がある。
本当にすぐ近くに、自分の好きな場所がたくさんある。最近店員さんと懇意になった古着屋もそうだし、このまち一番のライブハウスも実は同じ通りにある。
どっぷり地元の空気や色に染まってすごしていると、個というものが不思議に溶けていく感じがする。商店街のあちこちに置かれたベンチや水路沿いのタイル張りの小道で座ったり駄弁ったり煙草を吸ったりしているひとたちの姿が興味深い。
このまちはありがちなようでいて、特異な風景を有しているのかもしれない。消えたものの外殻をまだ纏った、無くなったはずのものの集合体だった。あいた空間に新しいひとや文化がすみついた。
このまちは、無骨なところはあるし、飾りっけがないし、名古屋みたいな派手好きでもない。なにかの勢いに乗じることもきっと苦手で、このまちの不器用さが自分の不器用さと重なる。
これは愛なのだろうか。自分に地元愛があるとすればその表現方法はやはり創作でということになる。一言で表したりファストに流せるような気持ちではないと思う。
創作の登場人物たちにしても、退屈な長い時間も、楽しく短い時間もある。同じまちに暮らしていても時の進み方はさまざまで、その速度にできるだけ寄り添いたい。
職場は下請け仕事だがなかなか上から仕事を降ろしてもらえず、データワークのトレーニングをして過ごしている。モチベーションの維持に苦心する。オフィスにはほぼ毎日体験や見学の人がきて、あまり落ち着ける心地ではない。
だから代わりに街中に安堵を見出すだけなのかもしれない。
職場に毎日違う服を着ていくのはけっこうしんどい。
運動量が減ったのに休憩時間におやつを食べるので太った。
ほかに生活面の困りごとといえば家具がまったくない。ラグと机と椅子とチェストくらいはほしい。悲しいかなあまりゆっくりと家具を選定する余裕や勇気がない。
少しだけ自炊の習慣が戻ったが、噂の通りコメが売り場に一つもない。代わりに麺類や餅などが拡充されており、今台所にあるお米を大事に食べるとともに、別な主食に頼らざるをえない。といっても、ふだんから麺類もパンも食べるので、ニュースになるからといって別段変化があるかといえば微妙なところだ。
聞くところによると売り場にコメが行き渡らないのには複数の原因があるようだが、もうすぐ新米の時期なので落ち着いてすごそうという意見が自分の周りでは多い。自分のことをいえば実家が飲食店で、米農家さんから直にお米を買っているため、身内に焦った様子はなく、自分もいざとなればお米を分けてもらえるためひとまず事態を静観できている。
素麺もうどんも蕎麦も好きだがお米がないと気持ちは落ち着かない。コメがなくても困らないというひともいるかもしれないが、日本に住んでいる以上は、自分が思っているよりもコメのお世話になっている。これは読者に説教したいのではなく日頃から迂闊で感謝を忘れがちな自分に言い聞かせるための反省文だ。
積読が山ほどある。
新しく読もうと思っている本や観たい映画を、頭が「読みたくない」「観たくない」と拒否していて、これはいかんと軽率に知らないものに手を出す作戦に出た。
刀剣乱舞ONLINEを始めた。アプリゲームに触れること自体とても久しぶりだ。以下はメモ帳に書いた進行日記。
とうらぶ、始めて十日ちょっと。ゲームに熱中できるかどうか不安だったけれど歴史改変SFものという認識をしたら見方が変わった。長命なコンテンツゆえに入りづらいかと思ったが歴戦の審神者は優しかった(沼に引き摺り込もうとしていた?)
ボイスを聴くまでちょっとヒヤヒヤしていたが(いわゆる乙女系ゲームの要素があるのではないかと勘違いしていた)、どの刀もきちんと歴史や刀の特徴など、己のアイデンティティについて探究的に話をするのでひとまず安心した。
レベルの効率的な上げ方がわからないなりに楽しく遊んでいて、今本丸にいる32振りの刀剣のことはなんとか把握。初期刀は山姥切国広にお願いした。キャラクターとして自分が好きそうなのはあのあたりだろうな、と見当をつけてはいたものの、思いもよらない刀剣が好きになったりして意外性がある。歴戦の審神者である友人にわたしは山鳥毛のことは絶対好きなはずとLINEで言われてググった。当たり。
と、「版権もの」のキャラクターにはしゃいでみても十代の頃のような情熱はない。素直な心を忘れ冷淡になったり達観したりするのが怖い。情熱は持ちたい。
はじめは岐阜ゆかりの刀剣たちに興味を持っていたが、今いちばん肩入れしているのは前田藤四郎。初めてのガチャできてくれた。大きな武勲はないそうだがシンプルに好み。言動に癖がなく落ち着いていて、目立つ出立ちではないがカッコいい。今のところ彼がうちでいちばん強い。刀剣レベル70くらい。MAXはいくつなんだろう。
でかくて強そうなヤツが強いのは当たり前じゃんとなるが、小さくて細くてか弱そうなのにバンバン敵を薙ぎ倒していくさまのほうが見たいので、前田くんは永久に第一部隊の隊長です。
格好良くありたい、という言葉を繰り返す刀剣がいるので、格好良さの基準や虎の威を借りたイキりについて思いを巡らす。自省すれば、時と場合によってなにが格好つくかの軸がぶれ、虎の威さえもうまく借りられないのが自分だ、と思い至る。ビビりと恐れに支配されている。だからこそ格好良いと感じるものに対しては憧れがあるはずだが、表立って憧れを表明することを恥ずかしがっている。
格好良さは外見や容貌、という幼い頃から固定観念として植わってしまった要素を排して、年齢や性別に関係なく行動や信念の時代へと突入している。
世間的にもそういう潮流であると言えるし、日々時を重ねる自分としてもうわべだけでない人間としての深みや複雑さのなかに種々の格好良さを見出したいと思う。
格好よくない者ではあっても、格好よさへの感度は高い者でありたい。
ゲームといえば、どうぶつの森ポケットキャンプがこれまでのサービスを終了し、買い切り形式のアプリに変わるそうでそうかあ、と思った。
今はすっかりやめてしまったがかなり前はどうぶつだらけのキャンプ場の管理人をしていたので、終わるとなるとさみしい。
ユーザの課金がなければコンテンツは持続しない、というこの社会の基本的な構造に、迎合も抵抗もできなくて宙ぶらりんだ。
だけどゲームの課金は怖い。
今度、久しぶりに高校の頃の友人たちと会う。結構な人数になるが、大人数は疲れるぶん、自分ひとりに注意が向かなくていいところもある。
伸ばしっぱなしの髪くらい切り揃えたり染めたりしてもいいのかもしれない。髪の毛はもうすぐ背中につくくらいの長さになった。こんなに髪を伸ばしたのはそれこそ高校の頃以来かもしれない。単純に美容院に行くお金がない、という理由までも当時と同じだ。そこはちょっと情けない。