いつ、どことも知れぬ夢のような話をする。
いずれの帝の御時であったか。ある密教僧が、かの弘法大師の旅の軌跡を追い、鍛錬とこの世の真理の追求に勤しんだ。ところが僧は、一心に坐するあまり、自らの観想内部に深く囚われたのである。この世ならざる場所、異界との接続である。
物語はこの世ならざる世界、陰界を舞台とする。そこには農民も貴族も住んでいる。おおよそ、時空や道理の歪んだ秋津島での出来事としておくのが程良かろう。
話は、魂が彷徨う川辺に、ひとつの首が転がっているところから始まる。
腐った水の流れる川辺で目が覚めた。両の瞼に泥がこびりつき、口の中は土の味がする。それは泥を洗い落とす手を持たない。手足どころか、首から下が無い。元はどのような姿をしていたか、切断面の先を想像するしかない、優美な屍骸と呼ぶべきものであった。しかし首は生きていた。瞬きをし、口をもごもごと動かす。
声が頭上から、不意に投げかけられた。
……このところ、星首がよく流れつくな。首拾いのあにさんの休む暇もありゃしねえ。
星首とは、時空の狭間で身体をばらばらに失った存在のうち、首だけになって次元の海や内観の宇宙、陰界、冥界などを浮遊する者の総称である。そうした世界が有るか無いかで言えば、有る。
たとえば陰界。僧が結跏趺坐をして宇宙の真理を観想する時に、行者の存在を中心として空間的にひらけてくるのもそれだ。曼荼羅、宇宙の縮図への入界。他者と共有はできないが、当人にとっては事実として体感できる世界だ。そこには大気や風もあるし、太陽や他の星々の煌めきもある。鳥が羽を広げて飛ぶ。天と地の理に支配された奥行きのある空間が広がっているのだ。ただ、そこに棲まうものは、定常な時の流れから弾かれた者たちだ。夢現、半死半生、神隠し。いずれにしても、魂が半分現世から離れている者たちの世界。そうした世界に漂うもののひとつが、星首である。
星首は悪態を吐かれ、そのまま蹴り飛ばされそうになったが、誰かが首拾いを諌め、顔をきれいに洗っておやりと命じた。天の声だった。
星首は深みのある大きな皿に乗せられた。清潔な水が頭のてっぺんから注がれ、顔面の凹凸を流れ落ちる。古の釈迦の出生の再現。生まれ変わりの儀礼、灌頂(アビシェーカ)にも似た行為。晴れた視界には、まずはじめに、縁に腰を下ろした誰かの脚が映った。
……よう、見えるか……。
先程の首拾いらしい。更に前方には荒れた庭、崩れた塀の向こうに広がる薄野原。遠く、ぼろ衣の案山子を嘴でつつく鴉が錆びた声でひとつ鳴いた。西陽が地平線を灼いている。
屋敷に向かって歩いてくる人影がある。旅装束をした男装の麗人で、歳の頃が知れない。門からでなく崩れた塀を乗り越えて敷地に入ってくる。首拾いの旧知らしく、縁に腰掛けると酒をたらふく呑み、塵の積もるような四方山話の風呂敷を果てなく広げた。
月が出た頃だった。
……ところで、そこの星首は持ってそうかね。
麗人が訊いた。
……いんや、こいつぁ“空っぽ”だ。壺にしたけりゃ持っていきな。
首拾いが投げやりに答え、星首を指で小突いた。その指を噛みちぎってやろうと牙を剥くと、手はすいと逃げて、代わりに麗人が星首を持ち上げた。
……ふうん、よき壺になるやもな。
それから三百余年、壺の呪いをかけられた星首は、さすらいびとの壺として旅をしている。瓶子となったり、水瓶として扱われたり、時には鑑賞されるような日々を送っている。三百年という年月は、ある場合には時の流れに逆行しながら、ぐねぐねと続く道のように果てしないものとして感じられた。