日記とも思索とも言えないような文章を書く。誰かに読んでもらうつもりの日記は「です、ます」調にすることが多いが、自分の考えをただここに置いておきたい、誰かに向けてというより自分を観察するようにとりとめなく書きたいという時は、あえて丁寧語にする必要もないかなと感じている。
引っ越して一ヶ月が経つ。ようやくここから始まるのだという感じがしている。いまだに、わたしは〈孤独〉を愛しているし、孤独に過ごしたいと願って止まない。でも主に経済的な理由からそれが叶わない。支えてくれる人間が必要だ。支えてもらっているくせに孤独のほうがいいとはどういうことだ、と自分の頭の中にしかいない第三者が言う。理想と現実は違う。わたしは古本屋さんに勤めたかったが、その勤めたかった古本屋はこの間潰れてしまった。このように、現実というものは代替不可能で、大きな壁のように目の前に立ちはだかっている。
このブログではあまりパートナーのことには触れないようにする。これはわたしの、わたしによる、わたしのための記録だからだ。他人の様子について本人の与り知らぬところで書き立てるというようなこともしたくない。自分自身のことを書く時に副次的に書く必要がある時はあると思うが、その程度に留めたい。そもそもこのブログは創作者としてのあわいの読者が作品の進捗確認などを目的に読まれている割合が高いと思われるし、自分自身もそのつもりなので、あまり趣旨から外れたことは書きたくない。
でも生活のことは創作に結びついているので書く。住んでいる地域のことをいろいろ書くが、適宜フェイクを入れている(住所特定などされないとは思っているが、悲しいけれど念のため)。新しい家の周りには自然豊かな場所がない。実家の近くにはきれいな川と遊歩道があり散歩にちょうどよかったが、新居の周りには鉄道と、車のための道路があるばかりである。もっと行ったことがない道を歩いたりしてみないと分からないが、自然に触れる機会は欲しい。公園のようなものも見当たらない。近くというほど近くではないが、美術館や図書館がある。しかしバスがなく、歩いていくしかない。真夏のピークは過ぎたとはいえ、暑いなか長時間歩くのはしんどい。そう考えると家の周りにはなにもない。唯一良いのは、徒歩5分圏内に喫茶店とセブンイレブンがあることだ。喫茶店があるのは良い。もう少し離れたところにお気に入りの喫茶店がもう一軒ある。歩いていけないほど遠くはないが、まあちょっと遠い。最近バスは鉄道の空白地帯ばかり走るようになったので、沿線の地域に市バスは走らない。そんなわけで、どこかに行くとなったら鉄道を使うしかない。駅もまた絶妙に離れていて、歩いていけないほど遠くはないがちょっと遠い。近くに八百屋もスーパーもない、これも残念な点。買い物は誰かに車に乗せてもらった時にするようにしている。ドラッグストアはあるのだが、生鮮食品が揃わないのでやはりスーパーに行きたい。すこしずつ折り重なった不便さとともに生きている。でも、なにもかも完璧に身近に揃っていたら、そのエリアから出たくなくなってしまうかもしれない。なにもかも完璧に揃った街……たとえば東京のど真ん中、その近郊。便利かもしれないし、最新のカルチャーに触れられる機会も多そうですごく魅力的だが、わたしはそこに住めないだろう。理由はいくらでもある。わたしは都会には住めないくせに、田舎が嫌だと文句を言っている。きっといずれどこにも住めなくなる。
こういう環境では、幻想や空想が花開かない。じゃあどういう場所ならいいのだと聞かれても困るが、とにかく美術館か博物館か図書館か古本屋か映画館か、そのどれでもなければ水族館か植物園か、それも無理ならとにかくだだっ広い公園とか緑地みたいなところに行かなければ心が潰れてしまう。今のところ、すぐに日常から逃げ出して、空想にふけることができそうなところは、喫茶店くらいだろうか。選択肢があることをありがたいと思うべきだろうか。
とにかく、仕事がなくて暑い日はひたすら自室にこもっているので、生活に抑揚がなく面白みがない。こんなつまらない人生でいいのかと思っていたら、歳の離れた友人が山奥のギャラリーで催されるアートと文芸の展示会を観に行かないかと誘ってくれた。うれしい。大々的なギャラリーではなく、商店を営んでいる店主さんが読書スペースや養鶏場などと一緒にギャラリーも管理されているという素朴な場所だ。地元の作家さんがよく展示をしているイメージなので、今回もローカルな展示会かもしれない。たぶんまちがいなくそうだ。もちろん著名な芸術家の展示会にだって行く意義はあるが、わたしは地域性の強い表現者と触れ合ってみたい。この土地に居るからこそ触れられる作品が必ずあるはずだし、その機会を大切にしたい。
朱喜哲(ちゅ・ひちょる)著『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』読了。現在というものは日々、SNSを筆頭にして正しさを振りかざし、「われら/やつら」「味方/敵」と他人を断定しやすい環境におかれている。本書ではそういうポジションをとることにブレーキをかけて、答えが決まらない状態を開かれながら、それでも〈会話〉を続けていく態度を提案している。誰もが発信できるような世界で、自分がそうありたいと思った〈ことばづかい〉をしていく。相手を説得しなきゃとか合意を形成しなきゃとかではなく、ましてや論破でもなく、ことばに対して開かれた姿勢で、相手を黙らせないコミュニケーションができるのではないか。…という論が哲学者の視点から語られる。バザールとクラブという比喩があるというのも初めて知った。ローティが積極的に用いた語彙ではないようだが、公共的な場の息苦しさとある種私的な場の危うさ(差別的発言などをする可能性)が示されていてよかった。いたずらに誰かを(主に「やつら」としてターゲットにされがちな「われわれ」と違う属性を待つ人びとを)敵視するのではなく、冷静に会話を続けて相手を知っていく過程を大切にしたい。〈ことばづかい〉によって虐殺が生まれるという項も興味深かった。SF小説の『虐殺器官』が取り上げられたりしていたが、まさに現実でも、特定の人種を「ゴキブリ」と呼ぶことで虐殺へのハードルを下げさせる、という虐殺の文法とも呼ぶべき〈ことばづかい〉があるということだった。確かに、どういった言葉を選ぶかによって、特定の人びとや事物をどう思っているのか、集団内でどう扱ってしかるべきなのかが醸成されていくように思う。たとえば外国ルーツの人びとに対して「あいつら」「やつら」という呼称をしていたら、彼らをそう呼んでいいのだという空気が形作られていく。差別や分断に抵抗するために、〈ことばづかい〉を気にかけるというのはいちばん身近で大切な姿勢かもしれない。
本はほかにも読んでいるが途中だったり積読だったりする。読み終わって感想文が書きたくなったら書くと思う。
病気の話。病気=生活というくらい、病気であることが身体に馴染んでしまっている。馴染んでいるとはいっても、病気とうまく付き合えているのかすら分からない。いくらでも横になっていたいという、統合失調症の陰性症状である無為好褥が続いている。何はなくても横になっていたい。無気力とかだるいとか言い換えることもできるのかもしれないが、言い表せる言葉がない。とにかく「無」なので「無」だ。この無為好褥の傾向が強い日には仕事に行けなかったりする。あるいは周期的な不調のさなかには身体のしんどさもあいまってそうなる。統合失調症の慢性期には無為好褥になりやすいようだ。感情が平坦化している、という問題も抱えていて、喜んだり悲しんだり、心から気持ちが湧き上がってくることがない。刺激を避けてもいるので、何か無理のない範囲で芸術に触れたりするといいのかもしれない。刺激でいうと、SNSはあまり見ないほうがいいのかもしれないと思っている。と言っても旧Twitterなどは告知がしたい時でない限りもう開いてもいないし、自分が今運用しているのは比較的穏やかなSNSばかりなのだが。とにかく「無」と戦っている。文章を書く意欲も湧いてこないので困る。何かを書くことは自分にとって自然なことで、自分が自分でいるために必要なことだと思っている。週に2日か3日くらいしか働きに行けないのも、自分の限界が週3日なのだと割り切ってしまえばいいのだが、就業継続支援B型だと収入にならないので困ったなと思ってもいる。B型の支援員さんが、「(会社や社会の)役に立つとか役に立たないとかは考えなくていい、あわいさんが生き生きと過ごせたらいい」と言ってくださったのはありがたかった。社会全体もそう言ってくれたらいいのに。話が逸れたが、無為好褥に戻ると、対処法はできる限り離床するということだけらしい。自分から率先してというのが難しければ周囲の人間が声かけする(入居施設や病院などでは支援者が声かけする)。ラジオ体操とか家の掃除とか、比較的できそうなところからやっていきたい。9月になってだんだん暑さが和らいでくるとはいえ、暑いなか外に出ていくのはハードルが高い。
暑さからずっと避難して暮らしているというのが、SFでいう核シェルター生活みたいだ、と漫画家の香山哲さんがご自身のYouTubeでの配信でおっしゃっていた。確かにと思う。特に現在は引っ越したばかりでカーテンがなく、カーテン代わりに雨戸を閉め切ってエアコンをつけた自室に引きこもっているので、シェルター感がある。街中でもクーリングシェルターという言葉をよく見かける。
身近な植物や動物に目が向かないのは自分の明確な欠点だと思っている。たとえば川辺にいるのはサギの仲間だとは分かる、でもアオサギなのかダイサギなのかまた別の種なのかさっぱり分からない。並木道に植えられている木に赤や白の花が咲くが、それがサルスベリだと何度教えられても覚えられない。興味関心の幅の狭さを心底反省している。じつは現在は(現在は、というのは最近よく使う一人称)人間至上主義者なのかもしれない。人間にすらあまり関心を持てていない気がして、そんな時にはひたすら「許してください」という気持ちになる。
自分のことしか話すことがないというのは貧しいことだと思う。道端の草花について、すれ違ったひとについて、なにか思いを馳せてみたい。
実家の近くの業務スーパーに行くと、駐車場の隣にすごく綺麗な薔薇の群生がある。野生の薔薇ではなく、誰かが自分の敷地内で育てているものだ。フェンスがあって、その網目に絡みつくように薔薇が生い茂っている。季節を過ぎるとすべて摘み取られている。すごくまめに花々の世話をしているひとなんだなと思っている。薔薇が咲く季節には、買い物に行くたびに綺麗な花をタダで見させてもらって申し訳ないみたいな気分になる。そのことをふと今思い出した。
昨日、職場に向かう途中電車に乗っている時。降りる駅が近づいたのでドアの近くに並んで立っていたのだが、自分の前に立っていた中年の男性が何気なくため息をついていたのがなんとなく忘れられない。月曜日だったから、これから一週間が始まるということが憂鬱だったのかもしれない。あるいは8月の終わりだったから、そのひとは夏休み明けで気だるかったのかもしれない。ただこれから電車を降りて移動するのが億劫だったのかもしれない。あるいは単純に癖とかだったのかもしれない。知らないひとのふとした仕草や佇まいで、なんとなく忘れられない、というのがたまにある。
空に浮かぶ雲の形や空の色が、真夏のものからゆっくりゆっくりと秋のものに向かって変化しているような気がする。毎年「終わらないと思っていた夏がきちんと終わる時が来るのが不思議だ」と思う。
日本だけでなく、世界各地で地球温暖化が原因だと考えられる災害が頻発している。一個人としてできることは少ないが、現地の人びとのことや地球のこれからのことが気にかかる。これだけ明確に異常が起きているのだから、災害が起きた、大変だ、ということだけでなく、その原因と対処にまでマスメディアが踏み込んでくれるといいのだが、と思いながら報道を見ている。
創作について直接なにか書くわけではないが、身の回りのことやふと感じたことなどについてこれからも書けたらと思う。きのうはパンを買おうと思っていたら、身内がホームベーカリーで作ったパンをくれてうれしかった。焼きたてのパンはふわふわでちょっと鳥のふわふわの羽のことを思い出す。