百字真言が明星の口から零れ、プラティシュターの儀式が完成すると、時間をかけて見事に描かれた曼荼羅は、容赦なく破壊される。曼荼羅に一時的に宿っていた仏たちにお帰り頂くと、水辺に向かい、先程まで宇宙を意味する色彩をかたちづくっていた顔料を投じる。水瓶たち、つまり明星以外の星首たちの空っぽの中身を、水で満たして寺院へ持ち帰る。これを寺院に散布して最後の厄除けの手順とするのだ。その後には、関係者を集めて阿闍梨が代表となり彼らを労い、歓待する宴が開かれた。宴が終わると、弟子たちが慌ただしく片付けをしたり、関係者を見送ったりする。辺りがしんと静かになってもまだ終わりではない。この寺院の行末を決めなければならない。明星が現世に帰ってしまった後誰が世話をするのか、幾日にも諸々の話し合いが重ねられた後、阿闍梨が明星に声をかけた。
……すべて済んだぞ。
本堂へと明星が運び入れられ、弟子たちが退室すると、明星と阿闍梨のふたりきりになった。どちらからともなく、本当に現世に、戻るのだな、戻れるのですね、と発した。阿闍梨が言うには、聖域において無心に坐することで、果てなき陰界での定めが閉ざされ、現世への道が開かれる。さながら悟りによって、六道輪廻から脱するかのように、である。ただし明星が向かう現世こそが、本当の地獄だと阿闍梨は言った。その地獄へと、自ら進んで目覚めるために目を瞑るのだ。
明星が静かに語る。
……この世の理、すなわち大日如来と一体になれぬうちは、世界にとって異質な己というもの、己にとって異質な世界というものの間で、精神は摩耗し、心も惑います。身体を失くし、人びとの移ろうままに流れ流れて過ごしていると、手足が無いゆえ余計なことは何もできませぬから、天ばかりを仰ぎ、ただ無我の境地に到達する夜もございました。壺の呪いを受けて首から下を失くして彷徨った奇妙な旅の記憶は、私にとってどのような修養や鍛錬よりも得難いものでございました。
……得難いものであった、か。聞け、明星。そなたの身体は、さる山岳で修行の最中に落石に遭い、首から下が押しつぶされておったのよ。陰界に流れついたのも、肉体を離れた魂が生死の間を彷徨っておったからだ。儂はそれをこの世ならぬ場所から見ていた。幸いにもおぬしの胴は斜面と落石の隙間にあり、心の臓はひしゃげずに済んだ。おぬしは助け出され、麓の寺院に担ぎ込まれて寝たきりになっておる。
しばしの沈黙の後、明星は微笑んだ。
……そうでございましたか。
……往生できぬというのが、いちばん善くない。儂は一番弟子のおぬしをどうにかしてやりたかったのじゃ。だのに、おぬしはここ陰界に秩序をもたらす即身成仏では満足せぬか。
……率直に申しますと、足りませぬ。
……現世へ戻った途端、おぬしには痛みや苦しみが待っておるぞ。また、ここでの時の流れに慣れたおぬしには酷なほど生命も短きものとなる。四苦八苦に満ちた末法の世に、本当に戻ろうというのか?
……そのような世に光をもたらすために、曼荼羅を追い求めたのですよ。現世に戻らぬという答えなどあるはずがございません。
……その曼荼羅が国や民の助けとなるかのう。聞くが、後の世の破戒僧や、天上聖母の使い魔、そのようなものたちと出会うたなどと、真に語り継ぐつもりでおるのか? 沈んだはずの船が大陸に辿り着き天竺まで旅したなどと、それは確かな事象か? 目覚めた時、おぬしには確かなことなどひとつも残っておらぬかもしれぬではないか。儂は今になって、ひしひしと、おぬしに手を貸したことを悔いておるのだよ。
……さて、真実と事実というものは、時に同一の事象を指すわけではございませぬ。私自身にも何が実際のことであったか、もはや定かでありません。ここに来たことで、私という存在のこの宇宙での在り方が、書き変えられたのではないかと思うています。ですから、もう一度生まれ直すのだと思って生きていくつもりです。
……かつてのおぬしには才気があっただけに、おぬしであっておぬしでない者になるというのは、惜しいことをしたものよ。
……私は、偉大な仏陀にもなれなければ、国益にとっても無用の者かもしれませぬ。歴史に名を残さぬでも良いのです。私は私自身の真理を夢寐にも忘れませぬ。もう二度と失いませぬ。さすれば、迷い無く真っ直ぐ進むことができるでしょう。そのまま、生命ある限り出来ることをするまでです。それで善いではありませぬか。あなたさまこそ、この明星めを見送った暁には、天上の位に就いてめでたく成仏なされませ。
前方に光が開けている。阿闍梨の返事を聞く前に、明星が足を踏み出した。両の手は印を結んでいる。その身には僧衣を纏っていた。いつからというのでもない、初めからそうであったかのように、五体満足である。進むたび、寺院の本堂の空間が後方へ遠ざかっていた。地上が、星空が、ぐんぐん遠のく。明星のまわりを、二筋の光が、さながら守護をするかのようにゆるく弧を描き飛び回っていた。千里眼と順風耳であった。明星は振り返らず、夜明けのように輝く光が開けた先へ、ほのかな微笑みを湛えて歩んでいった。
そして二度と、ここへは戻ってこなかった。阿闍梨はというと、明星の言葉を受けて以て瞑すべしとしたかは定かではないが、ものかはとした笑声を上げ、どこぞへと行方をくらましてそれきりだということである。
──明星が去った陰界に、またひとつ星首が流れ着く。
川辺である。首拾いが乱暴な足捌きでそこらの髑髏を蹴散らしながら歩いてくる。生きた生首をそのまま足蹴にしようとしたところを、呼び止める声があった。どこから現れたのか、怪しい笑みを浮かべた女性が、粗野な所作で口を拭う。酒臭い呼気を吐き、首拾いの前に佇んでいた。
……儂に寄越せ。良き壺になるやもしれぬ。
了
〈参考文献〉
『マンダラの密教儀礼』森雅秀,ちくま文芸文庫,2025