思い出せ、と言われれば思い出せるような気がするのだ。
話してみろ、と言われればすらすらと言葉が出てくるのだ。
千里は石のように動かない。呼吸すらしていないように見える。それほどまでに静かだった。しばらくして、ゆっくりと道済が身を起こした。星首が起きていることに気がつくと驚いた様子もなく、横にも縦にもなれぬというのはつらいな、と言って酒を勧めた。星首は、首から下がないから、首を振ることもできない。喋りたくないのに、仕方なく言葉を発するしかない。
……お酒は結構でございます。
……そうか。明るい気持ちにはなれぬようだな。病であれば私の神通力で治せたのだがな。
ふたりは大陸の言葉で話している。星首は異国の言葉を話せることが不思議だった。過去に訳あって大陸に渡ったのならば言語を習得していた可能性もある。思い出せ、という道士の女の言葉に呼応して記憶が呼び覚まされたのかもしれなかった。
……道済殿は、今までどれくらいの人を救ってきましたか。
……救ったなどとは思っておらん。酒が飲みたあて、飲みたあて、あちこちを放浪し、行く先々で出会うた人びとに成り行きで手を貸したこともあった。どれもこれも一宿一飯の恩に報いただけよ。
……すべて未来の出来事でございますか。
……誰ぞに聞いたか。そのようなのだ。こちらから見れば、この時代は過去ということになるか。我が通力にて知らぬ間に時を渡っておったらしい。
道済はあっけらかんと笑った。対して星首は笑う気にはなれない。
……なぜ私はこのような……。
その続きを、星首は言葉にすることができなかった。星首の様子を見るに忍びないと思ったのか、道済は懐から硯や筆などを取り出して言った。
……ひとつ、詩でも詠んではどうだ。そちらでは歌とか言うたか。先人はどのような時でも思わず知らず歌をうたったと噂に聞くよ。
……はあ、とはいえ、この世ならぬ冥界とも思しき場所に迷い込んでしまったなど、いかにして歌にすべきでしょうか。このような状況をうたうとしたら正述心緒の雑歌にでもなりましょうが、そもそも私には、歌の雅を解する心が足りておらぬのです。
……では、うたえぬのは仕方がないとして、好きな歌のひとつやふたつないのか。
星首を肘でつつくようにして、ほれ、勿体ぶるなとばかりに問う。道済が星首を元気づけようとしているのは明白であった。星首は心底かたじけない気持ちになりながら、正直なところを率直に述べた。
……そうですね。“婦負(めひ)の野の すすき押しなべ 降る雪に 宿借る今日し 悲しく思ほゆ”──婦負は地名です。野のすすきをなびかせて雪が降る晩に宿を借りて、その景色を見ていると何やら悲しくなってきたと言っています。高市黒人(たけちのくろひと)の羇旅歌は、旅先にあって妻や家族のことを思うのではなく、その地で抱いた不安や深沈とした思いをうたったものが多く、黒人殿の愁眉が目に浮かぶようで好もしいのです。
……暗いが、良い歌ではないか。
……泊まる宿すらない私の今の心持ちと合致しますから、一層好いと思えるのかもしれませぬ。ただ、一般に歌というと恋についてのものが多く、私には恋が分からぬゆえそれらには共感しかねます。それでも相聞に合わせて季節の移ろいをうたった歌などは面白く感じるのですが、私が真に興味を惹かれるのは、専ら宇宙の真理について、そればかりなのですよ。
……うむ、それだけ己がことを理解しておるのなら話は早い。宇宙の歌とやらも聞いてみたくはあるが、記憶が戻るにせよ、戻らぬにせよ、いずれ否応なくそなたの往くべき道は見えてこようさ。
その調子ならばな、と言うと道済も、黙り込んで石のようにその場に坐して、一同の中心にある焚き火の炎をじっと見つめるのだった。星首は、道済がたった今指摘した通り、すらすらと万葉集を誦じることができた自分自身に驚いていた。一時など、記憶を失っているため読み書きは一切出来なかったはずである。やはり、ひとと話すにつれて、記憶が少しずつ蘇っているようだった。
〈参考HP〉
たのしい万葉集 https://art-tags.net/manyo/