日記、あるいはペンギンについて

awawai
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公開:2024/9/11

今日思ったこと。

オス同士で子育てをしたジェンツーペンギンたちの話。上記の記事では、そのペンギンの「スフェン」がこの世を去ったことを報せ、改めて彼らの生涯やペンギンたちの興味深い行動について言及している。

この先の話を続けるために、わたし自身のセクシュアリティについて触れるので、他人のそういった事情に興味がない・読みたくないひとは留意してほしい。


わたしは、リアルでは誰にも話したことはないけれど、人間以外の対象に惹かれるタイプである。生々しいので細かくは書かない。口で語るのも無論相当勇気がいる。よく、創作コミュニティで好みのキャラクターやシチュエーションなどを「性癖」「ヘキ」と言ったりするけれど、それに含めてしまうことは、カジュアルに自虐しつつ「ちょっと異端でかっこいい」風を吹かせるきらいがあるので、したくない。

論点は、そういう自分からみて、前述のペンギンたちのことをどう思ったかである。

彼らのような存在は(ヒト以外の動物が「恋」をするのかは実際わからないけれど)人間同士がどういう性別でどういう関係になってもおかしなことではないというのを生物学的な側面から語り得る、有力な実例ではないかと思う。

もちろん「同性カップル」の動物たちも、ただあるがまま生きているわけで、人間のセクシュアリティの多様性を保証するために存在しているわけじゃない。ただ、生物学的になんたらと言うひとがまだまだ社会には多い気がするから、少なくともわたしはペンギンを利用してこういう文章を書く。これは明言しておかなくてはならない。

ぬまがさワタリさんの記事が、人間の多様性に正面から突っ込んだ内容のものではなく、あくまで動物の生態を紹介しているもので、この文章はそれに対するわたしの捉え方だということも。

それをふまえて、さらにわたしが思ったことをつらつら述べてみる。

恋をしない・人間以外に恋をする・複数の恋人と生きるなどの在り方も、こうした内容を語るべき時には当然含まれるけれど、現代の生活場面では多くの場合、想定から取りこぼされていると感じる。動物の自由は規範がないから保持されているともいえるが、自分自身やフォロワーにも当事者がいる中で、そこまで悲観的なことを言いたくはない。

わたしは将来、彼とも彼女ともその人とも呼ばないような存在を唯一無二の対象とするかもしれない。まあそれは冷静に考えて無理だと思う。でも本当に無理だろうか?

これについては同意を得るに足りないので、過去の事例を挙げるとしたら、奴隷解放や男女平等などが思い浮かべやすい。当時はそんなこと誰も実現しないと思っていたそうだ。少なくとも社会的強者と呼ばれる層のひとたちは。今もって完全に解決していない問題だという指摘は、その通りなのだが、到底議論しきれないのと論点を逸するのでここでは脇へおく。

つまり、どんなことでも、現状に対する失望や落胆は確かにストレスだ。だが、希望を持ち続けることもまた体力や気力を使う。それでもそれをやっていこうねという話にもっていきたかった。

セクシュアリティやジェンダーに限らず、日常で心を押さえ込んで諦めていることがあまりにも多い。例えばわたしは心の休息を摂るのが苦手だ。人と話すこと、街中で人とすれ違うのさえ苦手だ。それは自分には無理なものとはなから遠ざけてきた。仕事のストレスから精神病や自己免疫系の皮膚の病気になり、治らないと諦めてきた。でもどうして無理だなんていうのだろう。昔から苦手だったから? 医者にそう言われたから? 今はすこし違うかもしれない。未来はすこし変わるかもしれない。

希望を持つことそのものが苦手だ。いわんやその保持においてをや。すぐ挫けるし、自分自身に何ができるのか自信もない。

わたしは、そんなネガティブな自分を受容しながら、希望を持つ自分を受け入れようと模索している。相反する自己だ。それは、自我同一性を揺るがすことにはならないか? なんだかよくわからないけど不思議なことに、ならないらしい。天秤が釣り合っている状態のイメージ。でもそれはかなり難しそうだ。生活しているとすぐ気候やまわりの環境の影響を受けるし。

なにができるかなと思ったが、とりあえず、最近自分に期待したり、自分を大切にしたりできていなかったから、かなり久しぶりに湯船に浸かった。それだけで今日はこの記事を書く元気が出た。自分を育てる(生きている限り発達過程の途中なのだからこの表現は間違いではない)上での期待の高まりが、必要最低限の文化的な生活、つまり絵を描いたり文章を書いたり本を読んだりに繋がる。「何故」の答えを性急に出したくはないが、そうであるならばこそ、こういうことの繰り返しを続けたいと思う。

@awawai
趣味で小説を書きます。 lit.link/prmtlbrtori