……そうさな。儂の役割は、おぬしを見届けることであろうかな。
明星は阿闍梨が立ち止まり、背を向けている方角を北と見定めると、“オーム、妨害者を打ち破るものよ、フーム”と唱えた。真言(マントラ)だ。“すべての儀礼のためのマントラ”と呼ばれるもので、“妨害者を打ち破るもの”とは、曼荼羅において北方を守る尊格であるアムリタクンダリンを指す。天竺では古来、北方に悪鬼や夜叉が潜むと考えられている。儀礼はしばしば悪鬼によって脅かされるが、その度にこの北方の支配者であるアムリタクンダリンの力によって妨害者を取り除く。曼荼羅に関する儀礼においては、随所でこのマントラを唱えることがある。
真言が唱えられた瞬間、阿闍梨はまるでそよ風のなかに佇んでいるかのようにひょうひょうとしていたが、周りに居た鬼たちは、砂のように、ふうっと、音もなく消えた。影の貴族も闇に消えた。
北の方角からは、残飯の匂いに引き寄せられる蝿のように、わらわらと悪鬼が押し寄せていた。明星は獅子を使役して闘おうとしたが、阿闍梨が一歩先へ歩み出て、鋭く真言を唱え、鬼どもを蹴散らした。後から来た残りのものははじけるように逃げ出した。阿闍梨は振り返り、微笑んで告げた。
……明星、それだけでは不足であろう。今のおぬしでは印を結ぶこともできぬ。何より、この土地に、おぬしの精神が編み上げた世界に、聖なる領域を生み出さねばなるまい。おぬしがもし現世で目覚める可能性があるとすれば、これを成し得る他ないぞ。目覚めて、この境地を現実世界の曼荼羅に残そうと願うのならばな。
──聖なる領域。
明星と阿闍梨は、この陰界という混沌たる世界に、ひとつの秩序だった“聖なる領域”を作り出そうとしている。それはつまり、寺院の建築である。設計図は明星が考案し、阿闍梨が描いた。大陸から帰国した弘法大師が、虚空蔵菩薩が安置してあるという話を聞いて赴き、虚空蔵求聞持法にて真言を百万回唱えた日の未明、明けの明星からこの世のものと思えぬ輝きが放たれたのを見て“密教が今後この国の済世利民に役立つという証明を仏から頂いた”と喜んだことから、明星院と命名した寺院の構造に倣ったものであった。ついでながら、星首の明星という僧名もここからとられている。
建物は陰界にもごまんとあるが、正式な儀礼をもって聖性を付与された密教寺院は存在しない。陰界は現世と同じような世界に見えて、秩序なき混沌の世だ。正常な時の流れからも引き離されている。阿闍梨は星首の無い肩を叩いて激励した。
……儂がおぬしの手足となり、寺院と曼荼羅の完成まで補助しよう。おそらくは長い歳月がかかろうが、この混沌たる世界では三百年も一瞬の出来事じゃ。
阿闍梨は泰山の神の元で増やし続けた信徒たちを弟子として何人も連れてきていた。中には飛騨国出身で都に出役した工匠や、慶派を名乗る若い仏師も居て、何人かはその若さに比して信じられないほどの技量や成熟した人格を有していたことから、明星は彼らもまた時を超えてこの陰界に遊んでいる魂なのだろうと考えている。彼らの力を借りて、寺院が建設されることになった。
〈参考文献〉
『マンダラの密教儀礼』森雅秀,ちくま文芸文庫,2025
『中国の信仰世界と道教 神・仏・仙人』二階堂善弘,吉川弘文館,2024