ひとりの釉人が、葉長石の柱に背を預け、黒陶で地面を焼き固められた皿庭を眺めておりました。細い糸のような雨が地面に当たってはじけ、銀色の雨粒が散華のように庭中にちらばっています。たたらの里には古くから、液状の灰や粘土、鉱物を体内で生成循環する体質の者たちが暮らします。そうした人びとを得てして釉人と呼びますが、呼称が含む差別的な意味合いを文脈から排除するために、かれらが誇りとする塗布名で、まずはこの人物を柞灰氏と呼びましょう。
柞灰氏のお屋敷には長い年月をかけて収集された焼きものが多く収蔵されています。庭に面した応接間には、芙蓉の花を象った香炉がよい香りを漂わせていましたし、掛け軸の手前には手捻りの一輪生けがひっそりと佇んでいました。それどころか、お屋敷全体が陶のもので作られていて、浸水を防ぐべき屋根や基礎部分にはうわぐすりが重ねて塗られ、今日のような雨の日には表面が艶めいていました。
柞灰氏は、真水の点滴針が刺し込まれた腕をゆっくりと動かし、着物の袖のたわみを正しました。ほどなく、奉公人がたすたすとやってきて、障子の向こうから「漆喰さまがおみえです」と告げました。柞灰氏は、やっぱりな、と独り言を呟きました。この呉須という名の奉公人は、来客のある時だけわざと足音を立てて、それとなく主人に用向きを知らせるのでした。
「遅かったじゃないか」
「この雨では土馬も外を歩きたがらなくてね。馬車を出すのに苦労したよ」
苦労したと言いながら悠々と、漆喰氏はひとりの異人を連れてやってきました。驚くほど気配のしない客人です。異人は金糸の刺繍をあしらった、イデア装束と呼ばれる被服を纏っていました。
柞灰氏の下調べによれば、イデア民族は、遠く花ざかりの都に形成された時層の奥深くで結成された、形相追究機関〈夜間会議〉をその人種的起源としているといいます。ただし、生粋のイデア民族という概念は、形相と質料の因果関係が世に認知されるにつれ無尽蔵かつ多様に編まれた〈書物生まれ〉である多くのイデア人にとっては希薄なようでした。多くの人びとがそうであるのと同じように、ある者は翼人として、ある者は吸血人として、またある者は詩人としての誇りをもって生きているといいます。とはいえ、イデア出身者に会うのは柞灰氏にとって初めてのことでしたので、イデア人らしさなどというものを無闇やたらに読み取ろうとするのはやめ、ひとりの客人としてただただ歓待しようと考えました。客人は、羊毛繊維で織られた、帷子のような、あるいは寝台の上掛のような大きな外衣を頭から被っています。柞灰氏や漆喰氏にとって、羊毛の着心地は想像でしかありませんでしたので、客人にとっては快適なのかしらと素朴に納得していました。乾燥による肌の罅割れや、釉掛けして窯風呂に入ったあとの貫入が生じることはあっても、汗をかかない構造上、柞灰氏たちには寒暖の感覚がないのでした。
「姫さま方、お初にお目にかかります。語り手の戒律により顔をお見せすることができず、このような格好で失礼いたします」
「約束どおりお連れしたよ。こちらは……」
漆喰氏の後方からイデア装束の人物が一歩進み出たところで、柞灰氏が激しく咳き込みました。灰皿を引き寄せると、咽せながら、体内で溶解できなかった灰を吐き出します。漆喰氏が傍へかけ寄り、幼馴染の背をさすりました。
「失礼、内臓を悪くしておりまして」
「灰帰りにはきみでも勝てないか。どうする、今日のところは……」
「いや、せっかくお越し頂いたところを、無下に追い返すわけにはいかない。それに水は欠かしていないから平気だよ。ええと……」
「ルスと申します。〈語り魔〉のルス」
異人は恭しく一礼し、そっと室内へ踏み入りました。呉須が盆にのせた土瓶や湯呑み、燭台や燐寸といったさまざまな品を運んできて、うつくしい青磁銀彩の湯呑みに熱湯を注ぎました。たたらの里では真水が至高の飲み物です。客人は香炉に手をかざし、なにごとかを唱えます。芙蓉の花型を囲んで一同が座すると、ルス氏は語り手の流儀に則り、呉須が用意した燭台の蝋燭に火を灯しました。部屋の灯りはこの蝋燭ひとつ。火は生きものの舌のように湿った空気を舐め、風もないのに激しく揺らぎ続けました。やがて、廻転台の上で在るべき形へ収束してゆく轆轤細工のように火の穂先が細かく震えはじめた時、ルス氏は蝋燭の先を瞬時に素手で握り込みました。向かいで見つめていた漆喰氏は思わずあっと声を上げます。客人が手のひらを広げると、火は中指の付け根より少し下のあたりから立ち上っています。これも下調べの甲斐あって、柞灰氏は落ち着き払って移し火の光景を見つめることができました。時の流れから隔てられた語りの場を形成し、表象界と符節を合わせる明滅の没入儀式です。ルス氏は手のひらの火を燃やしたまま、訥々と語り始めます。
われら一族は、いつの頃からか知性の宿った生命の血を吸います。ほんの少量でかまいません。ほんの数世代前、わたくしの先祖はひとの首筋に直接噛みついていたと聞いています。しかし、時代が進み、人びとの衛生観念が更新された今では、採血するには契約を取り交わし、清潔で安全な病室と道具を用います。輸血となんら変わりないでしょう。吸血をしますと、われわれは記憶情報に含まれた個人の物語を読み込むことができます。もっとも、われわれは血筋に重きを置いているのではありません。血液は単なる溶媒です。重要なのは個別の物語性なのです。それはわたくし自身の体液と混ざり、脳に送られ、膨大な記憶情報に統合されます。内容の正確性は、この時点である程度失われます。語りは、個人を絶対的に証明するものというよりも、全体の地層の一部をある角度から描写したものを指します。物語を溜め込んで我慢できなくなりますと、生理現象として語りを排出しなくてはなりません。語り部には聴き手が必要です。われわれは、血の通った語りを物語の〈紡ぎ手〉に伝え、見返りにしばらくの間、〈紡ぎ手〉がこしらえた物語の域内に棲まわせてもらうことで生きながらえます。中には、物語の〈紡ぎ手〉と永年契約を結ぶ者も居ます。毎日夥しい語りを主人に提供する代わりに、衣食住の安寧を得るのです。しかし、多くの〈語り魔〉はこの限りではありません。流れ者として生き、わたくし自身は他者に語られることのない一生を送ります。
われわれは、気の遠くなるような幻想のなかで生きてきました。その夢現の境界にも似た時空を名付けて表象界、内的宇宙、あるいは、まばるの世ともいいます。これから語るのは、表象界から生まれ、物質界に這い出し、無数に広がり、苔のように棲みついたものたち、それらに関わったものたちについての短い話。
まずは、表象界の前庭での出会いを祝して、小話をひとつ語りましょう。われわれが影と呼ぶ名もなき旅人が、とあるまばるの森でベガという名の精霊に邂逅しました。まばるの森は広大で、永遠の初夏を繰り返します。あまりに広いので、場所によって棲息する生きものはさまざまです。その時、影なる旅人が歩いた足元には、ウツギ、フタリシズカ、ユキモチソウなどが生い茂り、ハナイカダが葉の上に小さな花を咲かせていました。地面は白い砂利道です。草花や木々の合間には、白くきめ細かく輝く石肌の塔が建っていました。球体と四角形が積み重なったようなかたちの石塔です。なにかの目印のような石塔を横目に、影なる旅人はゆっくりと散策を続け、そのうち手付かずの道なき道を進みました。
精霊は、森の奥の倒れた石塔に腰掛けていました。その時は、人間の子どもの姿をしていました。数多の名前のなかから、精霊はベガと名乗りました。おしゃべりなベガは自慢げに、はるか遠い未来では、北極星と呼ばれる存在だとも言いました。やがて、精霊はなぜ空から落ちてしまったのかを影なる旅人に語ります。精霊は星間を旅するのが好きで、鷲の姿をして飛んでいましたが、ふと地上に煌めくものを見つけ、習性の赴くままに捕えるため急降下したそうです。煌めくものの正体は石塔で、精霊は頭やからだをひどく打ち付けてしまい、この森で傷を癒やしていると言いました。しかし、まばるの森は永遠に同じ時を繰り返す〈輪域〉です。留まり続けると、いつしか時を忘れ抜け出せなくなってしまいます。精霊は、何度も星空に帰ろうとしましたが、どんなに高く舞い上がっても空に辿り着けないのだといいました。
為すすべなく朽ちた塔に腰掛けているのにも退屈したとみえて、精霊はふと思い出したように、まばるの森にひとりの子どもがやってきたことがある、と告げました。ちょうど、精霊はその子の姿を写しとって変身しているのでした。
精霊は星空から星のいろいろな地域を見下ろしてきましたから、その子の生まれ故郷ではどんな服装をするのかも知っていました。子どもは、胸の辺りで布を重ねた上衣に、袴を履いて腰のあたりを紐で結んでいました。伝統的な衣装ではなく、文明の進んだ社会生活に合わせて人びとが改良したものです。そう、ちょうどあなたがたのお召しになっている着物のように。
彼らはこんな会話を交わしたといいます。まず、精霊は開口一番こう話しかけました。
「きみ、背中が丸いね」
「踊りの先生にも同じことを言われた。でも、ぼく今迷子なんだよ。猫背だっておかしくない……」
「先生って、歩き方は教えてくれないの? 胸を張って、頭の上を糸で引っ張り上げられているみたいに考えるんだよ」
「きみは鷲なのになぜ人間の歩き方なんか分かるの」
「だって私は姿を好きに変えられるもの」
ほら、きみの姿にだって、と精霊は子どもの外見を写しとってみせます。これにはその子も仰天しました。しきりに自分の顔を触り、目の前にあるのが鏡でないことを確かめました。そして急激に、微笑みもせず炳としてそこに在る、自分の姿を借りている異形のものが、おそろしい怪物の本性を秘めているとしたら……という鳥肌の立つような恐怖におそわれました。震える声で尋ねます。
「きみの本当の姿はどんなふうなの」
精霊は、その子の表情からはっきりとした怯えを読み取ります。そしてほんの一瞬、ちょっとした戯れのつもりで、怪物のふりをして脅かしてやろうかと思いました。しかし、子どもが泣いたり腰を抜かしたりするところを思い浮かべると、ひとりでに虚しくつまらなくなって、その思案を夢にも満たない空疎な思いつきに留めました。そんなこととはつゆ知らず返答を待つ子どもに向かって、精霊はこう告げます。
「本当の姿ってのはないけど、あえて言うなら光じゃないかしら。明るい星の光。それよりきみ、呑気に話しているけどね、ここに居てはあぶないんだよ」
その時子どもは初めて、物質界の理から外れたところへ迷い込んでしまったことを知りました。精霊は大きな鷲の姿になり、小さな子どもをその背に乗せて飛び上がりました。
眼下には果てしない森が広がり、空は硝子質の透徹とした薄膜に覆われています。子どもが辿ってきた道筋を見つけることができれば元の居場所に帰ることができるでしょう。居場所といえば、精霊は心から懐かしげに、かつてベガという星に宿っていたころ、星空がいかにすばらしい場所だったかを、得意の自慢話も交えて語りました。
「帰れるよ、ベガ。なぜならぼくも家に帰るんだもの。毎日つらいことばかりで逃げたいと思っていたけれど、帰らないと姉さんたちが心配する。一緒に帰ろう」
「簡単じゃない決意だ。そういや、きみの名を知らなかった」
「ミンベク。ねえ、聞いてよ。ぼくの名前にはベガが隠れてるの。姉さんは、ぼくを時々ベガって呼ぶ。愛称がミンベガだから、それをもっと縮めて呼ぶんだよ」
子どもは精霊に抱いていた恐れをすっかり忘れて、その背にしがみつきながら言いました。精霊のほうは、「きみもベガというのかい。本当に良い名前だね」と返しながらも、じつは怪我が治りきっていないので、くらくらと頭痛がして、もうこれ以上飛んでいられないほどでした。
「そうだよ。おなじベガなんだから、ぼくたち揃って帰れるはずだよ……」
その時、ふたりは眉に迫る巨大岩の上を大きく旋回し、岩の罅割れからかすかに光が射しているのをみつけました。さっそく着陸して、小さな子どもが岩の下を覗き込みます。光源は見えませんが、風が吹いてきてどうやら先に道が繋がっているようでした。
「こんな岩は前までなかった。きっときみ、ここから迷い込んできたんだよ。ここを通ってお帰りよ」
子どもは精霊に感謝のことばを告げて去っていきました。もちろん精霊には、その光の道筋が正しく子どもの元居た場所に繋がっているかどうかはわかりません。しかし、たとえ帰れなかったとしても、その子がどうにか生き延び、どうにか暮らしていけますようにと願っている、というのでした。
精霊が語り終えると、影なる旅人は「不思議な話だった」と心から感謝を伝えました。そして、互いにいつか永遠の初夏の森から抜け出せますようにと勇気づけて、別れました。
影なる旅人は、密かに驚いていました。旅人も例の子どもと同じように、巨大岩の罅からまばるの森に迷い込んだのです。精霊の話によもやこの巨大岩が登場するとは思わず、不思議な心地で入り口を潜りました。罅割れの内側は鋭角な洞窟のようで、内部は狭く、光の射す道筋は細いながらも直線的にひとつの方向へと旅人を導きました。洞窟の先は、石炭で真っ黒になった〈黒い町〉に続いています。影なる旅人がしばらく道なりに歩いてゆくと、ひとりの若者が山がちな砂利道に佇んでいるのを見つけました。炭鉱で働く若者らしく、強靭な肩をもち、頬が黒く煤けていました。影なる旅人はなにも言わず、若者の後ろを通り過ぎました。あの時精霊に出会った子どもは、怪我もなく家路につきましたが、正確に言えば、元居た場所や家族のもとには戻れませんでした。その子は、見ず知らずの〈黒い町〉に辿り着いて、はじめからそこに住んでいたかのようにとある家へ帰りました。そこではその子の姉が待っていて、「おかえり、ベガ」と声をかけます。踊りの練習ではなく石炭を運ぶために毎朝家を出ます。その町では、身体の弱い者から子どもまでもが炭鉱で働かなくてはなりませんでした。子どもは、まばるの森に迷い込んだことで捻じ曲がった現実に気がつくことなく、そのまま〈黒い町〉で育ちました。次第に、まばるの森を彷徨って精霊と言葉を交わした、薄っすらとした記憶さえも失っていきました。楽しみといえば夜空を見上げることでした。やがて時が過ぎても、未来の北極星たる明るい星のことが、どうしてだかとても愛おしく思えるのでした。
手のひらが握り込まれ、火が消えたように見えました。イデア装束の被り物の下から見えざる視線を聞き手に向け、語り手のルス氏は物語を締めくくりました。ふと外を見ると、庭に降りしきる雨もようやく勢いを緩め、空には雲間から曖昧に射し込む薄明かりが見て取れます。土布団から這い出した蛙の鳴き声がどこからか聞こえます。
「わたくし自身も旅人となり、かそけき小話を披露して廻る。このことを、われわれは〈明滅する存在との接続試行〉と呼んでいます」
柞灰氏が語りの続きを催促するように座布団から膝を乗り出します。
「子どもの行方までは分かりましたが、結局、星の精霊とやらは、まばるの森に囚われたままですか」
ルス氏は青磁銀彩の湯呑みに注がれた白湯をひと口含むと、柞灰氏をたしなめるように片手を持ち上げました。
「物語のその先は、あなたがたの血を頂戴することで変化し、形作られます。世の中には、不随意の生理現象である語りに小細工を施して自己操作し、血の提供者を英雄や神のような立ち位置で物語に登場させる同胞もおりますが、わたくしにはそのような便宜を計る能がございません。ただ、語りは時に時態の本質を反転させます。子どもの帰る家が変わってしまったように。あの結末は、次の語りの場ではまた変化しているかもしれません。精霊も今度は本当の怪物になっているかもしれない。すべての物語は善悪の分別なく変化のさなかにあります。今この瞬間、この場も例外なく。この世のものと溶け合って、真実になる途中なのです。聞いているうちに平仄が合わぬと感じる向きもありましょうが、語られるたびに徐々に変質する世界の在り方をわたくしが伝え続けることで、あなたがたがいつかこの里から逃れるための一助にはなれるやもしれませんから。念願の成就と同時に、また新たな困難があなたがたの行先を阻むでしょう。ともすれば、それはいつかあなたがたが聴いた物語に似ているかもしれません」
横で一緒に話を聞いていた漆喰氏が、分かったような分からないような顔でふうむと白い顎に手を添えました。柞灰氏のほうはまた軽く咳き込みつつも、どこか緊張した面持ちでこう告げます。
「むろん採血して頂くつもりで貴殿をお招きしました。〈語り屋〉と〈紡ぎ手〉の力によって、たたらの里の外に連れ出してもらいたかったという目論見も率直に打ち明けましょう。あなたはあくまで現実は変えられるという希望を示してくださいますが、望むとおりに変えられるかどうかは万に一つの可能性への賭けだということも理解しているつもりです。われわれの世代では無理でも、あの子……呉須のような若者にまで桎梏に繋がれた人生を歩ませるのは忍びない。ありとあらゆる手段は既に尽くしました。願掛けに近くとも何かせずにはいられません。それに、語りのなかにどのように我々が溶け込もうとも、文句は言いませんよ。ただひとつ気がかりがあるとすれば、釉人は今でも専住地域で暮らすことが義務づけられる一族ですが、そのような囚われ者の血でもルス殿は本当に……吸うことができましょうか」
「魔物の種別でなく職業名で呼んでくださるのですね。わたくしに言わせてみれば、生まれながらの体質を理由に不当な義務を強いる者こそ、純血という幻想、根拠のない恐れに囚われているのです。われわれ〈語り魔〉も、吸血をすることから一般社会に忌避されてきた過去があり、今もなお根強い偏見に晒されています。生き延びるために、一部の同胞が権威や多数派におもねるのも芯から分からぬ話ではありません。ですが、わたくしはそのような道を選びませんし、あなたがたも、どうかそのように卑屈にならないでください」
「返す言葉もありません。要らぬ質問でしたね」
主人の傍に控えていた呉須がいつのまにか姿を消し、やがてたすたすと足音を立てて医者が到着した旨を報せに来ました。ルス氏との事前の往復書簡によれば、異種族間の血液取引には〈摂理の膝下〉所属の医者が立ち会い採血を行う必要があるといいます。伏目がちの老医師は、泥質血液を採取するために針の太い専用の注射器を用いること、採血の際の注意点などを長々と説明しました。その後は拍子抜けで、説明よりもはるかに短い時間で、注射器は柞灰氏たちの腕から引き抜かれました。書類に署名し、正式に血液はルス氏のものになりました。湯呑みに手もつけず帰ってゆく医者を見送ると、ルス氏は真空滅菌袋に密封された泥色の血液を仕舞い込み、「いずれ、変化した語りのなかでお会いしましょう」と一同に告げます。
既に日が暮れかかり、雨がすっかり上がるころ、客人たちは応接間を後にします。帰ろうにも土馬がすっかり眠り込んでしまったためにしばらく待ってのち、月が煌々と夜空を照らす中を、漆喰氏が客人を自身のお屋敷まで送り届けることになりました。去り際、ルス氏は庭の光景に目を見張り、嘆賞の言葉を柞灰氏に捧げました。皿庭に雨水が溜まり、水面に明るい星空を映し出して、曜変天目の如くみごとな池が出来上がっていました。