日記 2024115

ayahie
·

「愛することは信じること」という歌詞がある。「月のワルツ」という諫山実生さんの歌う楽曲からの引用だ。20年ほど前、NHKの「みんなのうた」で幻想的なムービーとともに放映され、今でも根強い人気がある名曲である。

幼少期、アニメ「ポケットモンスター」を見ていたころ、私はこの世界のどこかにピカチュウが実在するのだと心のどこかで思っていた。アニメの中の出来事は本当にあったことで、それを見た誰かが書き起こし、こうしてお茶の間に伝えられているのだと考えていた。物心つく前から親の影響でアニメやマンガに触れていたからか、現実と物語の境界が曖昧なまま育ったのである。

もちろん、物語は誰かが作ったおはなしに過ぎないという大人たちの意見は理解していた。物語の中のような出来事は滅多に起こることはないのだろう。それでも、私の知り得ない範囲、それこそ地球では無いどこかに、ピカチュウは生きていると信じていた。

いつから物語に熱をあげられなくなったのだろう。学生時代にあんなに熱中して読みふけっていたライトノベルも、読み返せば見知らぬ人のホラ話でしかない。Vtuberのイラストがどんなに可愛くても、電波の向こうで話しているのは街で見掛けるような普通の人間だ。流れるようなアニメーションも小気味良いキャラクターの掛け合いも、知らない人たちが薄給に苦しめられながらスタジオでカリカリ書いたものだ。全て嘘なのである。

人は生きていれば必ず嘘をつく。嘘とは、保身や欺瞞の為だけに存在する訳では無い。つこうと思っていなくても、結果的に嘘になってしまうこともある。「絶対行くよ!」とか「一生好きです!」みたいな言葉たちの、一体何パーセントが嘘にならずに今日を迎えられたのだろうか。

嘘をつくなとは思わない。本人がその時嘘のつもりがなかった言葉に関しては、さらにしょうがないと思う。学生時代、母親に「次のテストはいい点取るから!」と言って散々な結果に終わった時、「嘘つき」と言われて酷く傷ついたものだ。私はあの時嘘をついた訳では無い。ただ、自分の言い出した約束を破ってしまったのだ。そして、約束は信用のもとに成り立つものなので、破ってしまうと信頼関係に傷がつく。

だから、物語を愛することはつまり信じることなのだと思う。物語はたしかにフィクションだが、その中に見える人間の生き様に人々は心を打たれるのだろう。映画監督のクリストファー・ノーランが「私たちはスクリーンを通して観客を騙している。巧妙な嘘をついている。その責任を自覚しなくてはならない」と著書で語っていた。物語がただの集金装置になったとき、私はそこに裏切りを感じてしまうのだ。

幼少期の私は物語の敬虔な信者だった。今の私はどうだろう。作り手になってしまったからこそ、物語が嘘でしかないということを身をもって知ってしまった。

それでも、物語を信じることを諦められない。嘘の中にある一粒の真実、現実から延長された線が物語と交わる一瞬の光を探してしまう。物語の向こうにある、作り手の善性に触れた時、私は救われたように感じる。

愛することが信じることならば、信じられる物語、信じていたいと心から思える嘘のことを、きっと私は愛していけるのだろう。