文章を書くときは、想像力を働かせ、多方面に配慮するようにしている。意図せず誰かを傷つけたり、失礼になってしまったりする文章になっていないか。読み手によってはこんなふうに捉えてしまう可能性があるかもと思ったら、先回りして本来の意図が伝わるように心を砕く。
その“きちんと感”や“安心感”が、とくにビジネス系の文章にハマると編集者からお褒めのお言葉をいただくこともある。とても光栄なことだ。
一方で、読み手に想像させる余地を残さない文章は色気がないなと思うこともある。ソツがない、というのだろうか。SNSで議論が生まれ、たくさんの共感や反論を集めるのは、勢いや熱量、そして“隙”のある文章な気がする。
人の心の柔らかい部分をそっと押すのは、理詰めの文章ではなく、エモーショナルな文章。ものを売るときには、スペックではなく、その商品を手に入れた未来に待っている楽しい体験を想像させよ、というのもそういうことだろう。
私は長年(一人称で)ブログを書いていて、そのあとライターになったクチだ。初期のころの文章は稚拙だけれど、勢いや熱量があったなと思う。プロとして“きちんと感”や“安心感”のある文章を安定的に納品できることに価値があるのはわかっているけれど、多方面への配慮を優先するあまり“隙”をなくすのが正解だとも思わない。
もちろん場を選ぶ必要はあるけれど、日ごろ仕事でカッチリした硬めの文章を書いている方が、noteやしずかなインターネットに揺れる心の動きをつづった文章を投稿しているのを見ると、ぐっときてしまう。
“隙”があるのはセクシーだ。人も、文章も。