いつもの通り、芒とWebの海の上を人差し指のスワイプで漕ぎ回っていると、X(Twitter)で次のようなpostに遭遇した。
こういうのを見るたびに思わず、ふう、と息を吐いて瞼を閉じながら、天井を仰いでしまう僕である。ちょっぴり詩的に言ってみたけれど、単純にスマホ首のせいで筋肉が悲鳴を上げただけかもしれない。
これらは一見議論を呼んでいるように見えるのだけれど、可能な限り品良く言うならば、それぞれの視点を鑑みずお互いのオピニオンをぶつけあっているだけであり、ずっと有り体に言うならば、未就学児の喧嘩と同じだ。
この二つのpostは、それぞれ3つ、replyのツリーを繋げているにも関わらず、話の抽象度が高すぎるし、余分な情緒が多すぎるし、客観的情報が欠けている。どちらもノイズ混じりで、伝えたい核の部分はぼんやりとしか伝わってこない。
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おそらく、本当はこのpostに含まれていない情報が多数あるはずだ。しかし、ひとつのpostにつき140文字という限られたフォーマットに自分の主張を落とし込まなければならない以上、伝達する情報はある程度取捨選択していかなければならない。
僕が最近思うのは、この取捨選択が下手な人が多くなったな、ということだ――まあ、もちろん僕も含めてだけれど、昔から特段上手いと言う人もいなかったとは思う。それを差し引いても、ここ数年は酷いなと感じることが増えた。
少なからぬ人たちが、自分の主張に必要な情報を削ぎ落としてしまい、代わりに冗長な事柄を含めてしまう。
例えば、業務のドキュメンテーション自体は、業務遂行の円滑化を図る上ではもちろん有効で、それは可能な限り推奨されるべきことなのだけれど、しかしそれとメモを取るよう促してきた人物がパワハラ体質である(と言われている)ことに、何の関係があるのか。
例えば、業務を遂行する上で必要な事柄についてメモを取ることは確かに大事なのだけれど、しかしなぜ端から「メモを取って仕事を覚える気のない奴がマニュアルなんて真剣に読むわけないだろ」という、早まった一般化めいた部分から話をスタートさせてしまうのか。
これらの余分な情報のせいで、「詰まるところ、お前らがお互いに気に入らない部分で当て擦り合いをしてるだけじゃないの?」という印象が拭えなくなり、せっかく建設的な議論が出来そうなトピックなのに、読んだり参加したり理解するのがしんどくなってしまう。
140文字というのは、人間の思索のためのスペースとしては、どうにも狭すぎるようだ。
僕が尊敬している――なんていうのも烏滸がましいのだけれど――エンジニアのひとりで、StackOverflowの立ち上げやTrelloの開発に携わったJoel Spolskyは、2010年(!)に投稿したblogのアーティクル内でこう言っていた:
多くの人がTwitterを役に立つものだと考えていることは十分理解している。しかし、私には、Twitterは考えやアイデアを交換する方法として本当にひどいものであるとしか思われない。Twitterが作り出すのは精神が麻痺した世界で、そこではどんなに難しいことを考えても一行分にしかならない。Twitterは他の人の言葉に耳を傾けることなく、深淵に向かって自分の考えを叫び続ける人々の不快な声のこだまだ。ログオンすればページ一杯の小さな手榴弾——つまり理解不可能で、コンテキストの無い文の山がなだれこんでくる。これらを解読するには5分ばかり調べる必要があるのだが、実際調べてみると、その中身は馬鹿げていたり、見当違いだったり、テレビシリーズの宇宙空母ギャラクティカに関するものだったりするのだ。
とはいえ、それが1,500字もかけて駄文しか生産できない、僕のような存在を肯定することにはならないのが悲しいところだけれど。
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ちなみに、このトピックに関しての僕の意見は以下に述べておく。本当に蛇足もいいところだし、この箇所は読み飛ばしてしまって構わない。
・僕としては、あらゆる業務には可能な限り、マニュアルなり手順書なり仕様書なりといった、整備されたドキュメントが必要であると考えている
・何がしかのドキュメントは、新規既存を問わず、メンバへ業務への理解を促しつつ、それに必要な情報を伝達するためのオーバヘッドを短縮するために作られるのであり、そして作られるべき
・もし、あらゆる業務を口頭で伝えられつつ「今から俺/私の話を逐一メモしろ」と言うのであれば、それは時間の無駄でしかない
・しかし、ドキュメントは聖典足り得ない。一言一句余さず唱えれば必ず天国に行けるという物ではない。それはあくまでも、業務を遂行する上での道具にしか過ぎない
・ドキュメンテーションや業務遂行を補足するためのTipsとしてのメモは歓迎されなければならない。しかしそれも毎回のように必要となるのならば、その情報もいずれはドキュメントに組み込まれるべき