“善意の崩壊”を目にした新年

まず、この度の能登半島地震において、被災された方々には心からお見舞い申し上げますとともに、何よりの息災と、一秒でも早く安寧が得られますことを祈念いたします。

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しかし、地球も一年の内、日本人が一番穏やかで静まるこの時期を選んで大げさに鳴動することもないだろう。こればかりは自然の働きだから如何ともし難いとはいえ、どうにもむず痒い気持ちになる。

X(Twitter)で何気なく呟いた新年のあいさつではあるけれど、早速その“見通しの悪さ”が出てしまったみたいで、こんなこと呟かなきゃよかったか、と些かの後悔も湧いてくる。

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そしてこういう災い事があるたびに嫌でも焙りだされるのは、Xを代表とするSNS上での“善意のネットワークの崩壊”だ。

あの災害から12年ほどが経つけれど、その当時と比べるとWebの世界は随分と様変わりした。そして、それは必ずしも良いことばかりではない。

特に、目覚ましいまでのテックの進化が持たらした疑念は、それまである種の互助的繋がりを成立させてきたWeb上の空気を底冷えさせ、まさにディスラプティヴな状態にしてしまった。

救助の叫び、現地の被害報告、支援の声、そういった重要な情報も、一見するとすべてがフェイクに見えてきてしまう。信じるに足るものとそうでないものを判別するための境界線は曖昧に――いや、今や見えなくなってしまっている。

こういう時、もっとも最適な解が「余計なことを見聞きせず、発信せず、静観する」というのは、悲しいことだと思う。

無論、僕は究極的には部外者、非当事者であるし、当然石油王でも宗教上の指導者でも、何者でもないわけなのだから、そんな僕が今ここで右往左往して声を上げ、行動しようとしたところで、何かが変わるわけではない。

僕は、僕たちは、その時々の“現在”を見極め、適切に、冷静に行動するしかない。

でも、僕も少なからずあの3月11日を身近に体験した者として、あの時の機動的で、それでいてどこか温かみさえ感じさせたWebの風景が、もしかしたら永遠に失われてしまったかもしれないと考えると、やはり残念な気持ちになってしまうのだ。

@ayasawa_s
邦洋デジアナプラットフォームジャンル関係なくゲームが大好き過ぎるダメ人間。ゲーム好きな人は僕と握手。 Icon illustration by @torunico_kj