お金がすべてじゃないけれど

お金の話をしたい。

給料日だった。月の途中に入職して、締日と支払日の都合でまだ1ヶ月しか働いていないのに1.5ヶ月分の給与が振り込まれていた。1.5倍だから、ボーナスを除くと今までで一番たくさんのお金をもらう機会になった。わあ、みたことない額だぁ…ってなった。もしこれが1ヶ月分のお給料なら、にこにこしながら日常的にクレープを食べたり、着心地の良いちょっと高い肌着を買えたりできちゃうかもな……………なんてことはぜんぜん考えなくて、単純に30万を超えるお金が給与として振り込まれるという体験が、数時間かけてじわじわ身体に染み込んできてる。これがもしも月給ならわたしはもっと生きることに積極的になれるんじゃないかという気がした。たいした金額ではなく、大卒のときにはいったJTC企業に今も在籍したままなら辿り着けていたはずの月収ってくらいのもんなんだけど、わたしにとっては一度きりのたいしたイベントになっちゃったな。悲観してるわけじゃなく、こんなところに生へのモチベーションになり得るんじゃないか?ってものが転がってること、給与を受け取るという単なる生活の一部、なんにも珍しくない身近な出来事に、こんなに不思議なきもちにさせられるんだっていう、おもろさなのです。

自分が選んできた/選べた労働者としての環境と、これから先に選んでいく/選べるものとして妥当そうな予測において、今後月の手取りが30を超えること、よっぽどのことがない限り、ない。今の職業を自ら廃業することはないだろうと思っているから、労働者としての生涯の最高年収が400万まで届くことなんて、開業して大成功でもしない限りあり得ない。これは今の職業を選択する前から、最初の結婚と同時に転職したときから変わっていないことだけど。その上で、「経済的に立派な仕事につけなくても、女でも、田舎で生まれ育っても、美人じゃなくても、奨学金にまみれていても、かわいげがなくても、精神的な弱さをもったままでも、自分の力でお金持ちになれる可能性」を捨てないぞというつもりでやってきたんですね。だから今でも投資信託や大型銘柄オンリーじゃなくて、馬鹿みたいにグロース市場にお金を持っていかれてるんですね。安定だけとって得られるのは小金持ちになれる可能性だけだから意味がなくて。テクニックも結果論もどうでもよくて、本当に何度も機会損失しながら、あるかもしれない大儲けにかけてる状態を生きる糧にしていたりする。給与なんて最初から頼りにしていない、のだけど…

なんか、給与としてインパクトのある金額もらえると、それが一度きりのまやかしでも、こんなに嬉しいものなんだと思って、泣けてきちゃったな。仮にさんじゅうなん万を月にもらえても全然お金持ちにはなれないんだけど、本当はやりたくなんかない社会生活を自分なりに頑張ったことで沸いてくるお金のパワーってすごいんだなぁってなっちゃった。嬉しいのと同時に、こんなに暗い人生の諦め方をしてたんだぁって。もし仕事で稼げるようになったらこんなふうにとっても嬉しいのだから、これからは頑張って仕事で稼げるようになるのを目指します!とかそんなんじゃなくて、それはもういいんだけど、なんか、なんなんだろうな…お金っていうものが人生のテーマすぎてウケる。

給与レンジの違いはどうしようもないから、イコール能力差とか努力差とかって考えることはあんまりしなくて、同世代の別の業界のひとと比べて他人を妬んだりすることはないつもり。ただなんか、自分は自分の人生しか生きられず、自分の知覚しか直接実感することはできないんだなあって、よくわかんないことをぼんやり考えてしまっている夜です。コンプレックスと手をつないでこれからも生きていくつもりだけど、いろいろある生きる力のなかで、自分の経済力というか経済期待値?の評価をそこまで自分で下げなくて良いのかも。まやかしが転がってきたことによって、まやかしのような現実に今後出会うことがなかったとしても、わりと近くにあったりするのかもねって。稼げるなんてものはたいしたことじゃないんだって。そんなもんなのかもなって思ちゃったな。

褒め言葉より、なにか数値で評価っぽいものを渡されることのほうが、わたしは嬉しいのだろうなあ。だからお金持ちになりたいのかな。まやかしに心乱されまくりだね。お金持ちは遠いなあ。市場がおもんなすぎるから、グロースなんとかなってくんないかな。

どう足掻いても読みにくい文章にしかならなくて困る。自分でもよくわかってないもんな。