今月は寝込まずに乗り切るぞ、と決意して3日目、昨夜から数えて14時間半の爆睡をキメて15時に目覚めたので、がっくりと肩を落とした今日だった。今週もやりすぎてしまったらしい。
木曜日に頑張りすぎた自覚があるので、調子に乗らなければよかったのだ……と落ち込んだり、でも、木曜日にやったくらいのことを毎日したいのが本音で、ままならない……と落ち込んだり、した。
さらにその疲労に加えて、今日はテレビが私にオーバーキルのダメージを繰り出してきたのだ。
ドラマの感動シーンに疲れた
今日は起きてから、親とリビングで過ごしていたのだが、テレビがずっとつけっぱなしだった。それはまだいい。だが、感動系のドラマの録画を連続で再生されて、これがよくなかった。
ながら見ができない
まず、私はどうもドラマをながら見できない。ドラマがついているとそれが気になって、他のことに集中できないのだ。
しかも、集中したあげく、ドラマにはつきものである感動シーン、これで決まって大号泣してしまう。
親は涼しい顔で他のことをしているのに、私だけティッシュを手に嗚咽している。……そのドラマを観たいと選んだのは親なのに、理不尽な話である。
感受性もおかしい
さらに、私は感受性が豊かすぎるようなのだ。ドラマのクライマックスで泣くのはもちろん、前半のちょっとしたエピソードで泣くこともある。NHKのたった15分の朝ドラでも泣くことが多いし、悲しいニュースでも涙が出る。
もうここまでくると、「感受性が豊かで素敵ね」とかいう範囲を超えて、日常生活が若干困難だ。ひょんなことで泣くので、親にも驚かれたりする。
泣くということは、それだけ感情が動いているので、気持ちが疲れる。涙を流すことは身体にも負担なので、体も疲れる。今日みたいな最初からお疲れモードの日には、けっこうつらいものがある。
ドラマと小説の違い
ところで、私はわりとシリアスな小説が好きだ。冷静になって、ストーリーの内容で比べれば、今日観たドラマのほうがよっぽどほのぼのしている。これはどういうことだろう。
①進行速度を変えられる
小説が平気な理由のひとつは、進行速度をかなり柔軟に変えられるところがあると思う。つらくなってきたり、泣きそうになったりしたら、ちょっと本を置いたり、読む速度を遅くしたり、逆に読み飛ばしたり、すればいい。
いや、ドラマも一時停止とか、コマ送りとか、早送りとか、が技術的にはできる。しかし、読む速度を変えても頭の中で等速で物語が進む小説と違い、ドラマは一時停止したら完全に物語が止まってしまうし、コマ送りや早送りをしたら、それは本来意図された表現ではなくなってしまう。それは嫌なのだ。
かといって、自分のペースでなく相手のペースで感動を叩きつけられると、つらくて号泣してしまうのだが。
②想像力を低下させられる
もうひとつ、小説が平気な理由は、自分の想像力しだいで、だいぶ受け取るものを減らせるからというのがある。
小説で目に入るのは文字だけなので、想像してしんどいものは、想像しないで文字情報で処理すればいい。ストーリーの把握だけして、感じることは最低限にするのだ。……それでもやっぱり、泣いてしまうことはあるし、それはそれで読書の醍醐味だとは思うのだが。
ドラマはいけない。情景が全部目に入ってきてしまう。そこから感じるなというのは無茶な話だ。想像力を下げるのだって、限度というものがある。
愚痴もここまで
そんな話を友人に愚痴っていたら、「FMラジオは曲と雑談しかないから、なにかを聞き流したいときにはオススメだよ」と教えてもらった。ひとりのとき、人の声が恋しくなったら、参考にしたいと思う。
今日は疲れてしまったので、ゆっくり休むことにする。明日はもう少し、ひとりの時間を確保しようと思った。