今日は丸一日、白紙のネタ帳を前に過ごした。最悪の気分である。夜になって渋々ひねり出したネタで、今回のブログは書くが、こんなテーマは取り扱いたくなかった。
今日のテーマ
今日のテーマは「自分があまり賛成できない常識」である。本当に書きたくない。私は小心者なので、こんなwebの片隅でも、うかうか変なことを書いて炎上する心配をしてしまう。
ジェンダー論への興味
べつに常識になんでも迎合しているわけでもないので、昨今の変化しつつあるジェンダー論なんかには興味がある。これには友人の影響が大きい。
ひとりの友人は、「男女の区別で差をつけられたくない」意識の強い子だ。共通のもうひとりの友人は、「男女には生物学的にどうしても差があるのだから、まったく同じ扱いは不可能だ」という主張を持っている。このふたりが、SNS上で討論をしていたことがあって、私のジェンダー観に大きなインパクトを与えてくれた。
だがまあ、私の印象としては、「どっちの言うこともわかる」というハッキリしないものだ。
でもそうじゃないか? たとえばお茶くみみたいな、男女どっちでもいい仕事を、女性ばかりに押し付けるのはおかしい話だ。だが、身長の低い人にバスケットボールのシューターをさせないように、やはり生物学的に男性に不向きな仕事、女性に不向きな仕事、というものがあってもおかしくない。
ケースバイケースでしかないものを、一般論でまとめてくくって話そうというのが無茶な話だ。世の中の人達はなにをそんなにキリキリしているのだろう。よくわからない。
私が賛成できない常識
あまりに書きたくないから話が逸れた。戻そう。私が賛成できない常識は……「常識を疑ってかからなければならない」という常識だ。
なんだか話がこんがらがってきたが、だから私はこんなにも、このテーマを書きたくないのだろうと思う。
理解のための疑念
いや、常識を丸呑みすることがいいことだとは、さすがに思わない。一度疑ってみることで、その常識の成り立ちや議論の余地を、見出すことができる。それはわかっている。
だが、その「理解のための疑念」のプロセスを、この広いネットの海に表明することに、どんなメリットがあるのだろう? 炎上するだけではないか? 信頼できる人にだけ話して、議論を深められればそれでよいのでは?
問題提起の大切さという視点もあるが、大多数が指示しているからこそ「常識」だ。それを否定するようなことを、こんな一日ぽっちの時間でひねり出すような記事で書くのは、私個人としては誠意に欠けると思う。
私は小物なので
だいたい、日々思考しないといけないことはたくさんある。その負担を減らすのが、「常識」という思考停止方法だ。私は小物なので、多少の思考停止は使っていかないと生きていけない。常識バンザイである。
……まあ、そんな思考停止を今日くらいはほぐそう、という意図のお題なのだろうけど。
不機嫌のまま文字を打っていたら1000文字を超えてしまった。あほみたいだ。今日は低気圧の影響もあって、心に余裕がないので、明日は楽しく書けることを祈るばかりである。