Day10.「自分」と「好き」のゲシュタルト崩壊

あゆみ
·

 若い頃は、成功体験のほうが多かった私の人生が、だんだんうまくいかなくなってきて、とうとう決定的に転がり落ちたと思っていた頃。とある知人に質問されたことがあった。

「衣食住が保障されてて、お金にも余裕があって、愛してくれる人がいるのに、なにがそんなに辛いの?」

 けっこう辛口なご意見である。そのときの私はなんと答えたのだったか、もう忘れてしまった。でも、あのときどうしてそんなにつらかったのか、今の私が答えるとしたら。それはきっと、「自分のことが好きになれなかったから」だ。

自分の好きなところ

 今の私は、幸いなことに、自分のことがけっこう好きだ。だが、「自分のどこが好き?」ときかれると、ちょっと首をかしげてしまう。自分の好きなところって、なんだ……?

好きと得意と長所

 自分の得意分野とか、長所については、まあなんとなくうすらぼんやり理解している。

 たとえば、私はものを説明するのが得意だし、文章を書くのも得意だ。人とわりとすぐ打ち解けられるのは長所だし、外見的に言うなら、二重瞼と長いまつ毛はちょっとした自慢である。

 でも、「だからそこが好き」というふうには、少なくとも私の頭の中では繋がっていかない。それらはただの特徴であって、それ以上でも以下でもないのだ。

嫌いと苦手と短所

 逆に、自分の苦手とか短所も、思いつくものの「だからそこが嫌い」とはあまりならない気がする。それらもやはり特徴でしかなく、直せたらいいね、としか思わない。

 ……これ、明日のテーマなのにここでこんなふうにまとめて大丈夫なんだろうか。明日の私、頑張れ。

私の好きな人たち

 そんなわけで、自分の特徴へのジャッジをあまり行わない私だが、そうは言っても、自分を好きになるには、ある程度の根拠が必要だ。私の根拠は、「私の好きな人たち」である。

 家族や親戚、友人知人。たくさんの人と関わっている中で、私から「好きだな」と思う人たちがいる。そしてありがたいことに、そのうちのほとんどが、私へ「好きだよ」という態度をとってくれる。

相手の信じる私

「自分を信じられないなら、あなたが信じている私が信じているあなたを信じて」

 創作物でわりとよくあるセリフだが、私はこの理屈が大好きである。それはもう本当に大好きである。

 このセリフにのっとるなら、自分で自分を好きになれるかわからないとき、自分が好きな相手が「好き」だと思ってくれている自分のことを、「悪いやつではないんだな」と思うことができる。

 それを繰り返すうちに、私は自分のことを好きになれたのだ。特徴の内容なんて関係ない。あばたもえくぼというように、好きになってしまえば、どんな特徴だってかわいいもの。恋じゃなくて愛なのだ。

自分の好きなところ

 ありていな話になるが、強いて自分の好きなところを挙げるなら。「こんな自分のことを好きでいてくれるところ」だろうと思う。「自分」や「好き」という言葉がややこしくなってきたが、私は、自分を好きでいられる自分が、好きだ。