11日

あ 罪
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法治国家でありながら法律をあまり知らない人間たちが自分たちの常識と道徳を用い、非常識な言葉遣いと非道徳な行動で他人を裁く非寛容な社会に変貌して幾月。

SNSをひと通り断ってわかるのが地元は静かで空はどこまでも青く、道は果てしなく長いこと。この長方形の中にあるヴァーチャル空間はうるさく、白は黒文字に塗り潰され、思いのほか行き止まりや袋小路が各所に点在していたなと。

車が発明されて、それを誰しもが持てるようになったから渋滞が起きるのと同じでスマホのシェア率が高くなり、コミュニケーションツールが普及したことで情報と監視の渋滞が始まった。誰がどこで何をしようがスマホを放置すれば何も入ってこない当たり前がスマホがないと周りに取り残されてしまう当たり前に上書きされた日本は法律をよく知りもしない人間が同調圧力を加える崩れた法治国家となった印象が強い。

はたらけど はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る

最近読み始めた石川啄木の有名な詩だけどどうやら啄木自身はこの詩とは真逆の遊び人との話があり、それを思うと実に寛容な世界で生きていたなと推測できる。いま啄木がインスタで投稿していたら炎上は必須。むかしは間違いなく不便で健康寿命も短いし制限も多く、娯楽も少ないのを考慮したとしても現代より民間人同士の監視と侮辱や中傷が拡散する人間同士が公に格付けしあう世界ではないところを少し羨ましくも思えた。

旧Twitterを含む短文アプリと日本の互換性の良さが一時期、俳句短歌文化だからであると書かれた記事が拡散されたとき一部の俳句短歌アカウントたちが否定に躍起となっていたのを憶えている。いま思うと確かに現代の呟きには美しさもなければ慎ましさもなく啄木が唱えた【富国強兵の強兵をやめたとき民は国を軽んじ富へと走った】皮肉の一説の通り、利己へ利己へ。その結果うまれた格差による本来あってはならない妬み嫉みが結果として非寛容さを生み出してしまったのではと仮定。

再度SNSから離れてみれば花は揺れ、人々は無口に歩き、閑散とした地元の道路には壊れそうな車がとつとつと歩くように進む。それらに溶け込んだとき自分が世界に無関心になれたようで寛容とは利他と人間そのものを重んじ猶、すべての現象がどうでもいいと思えることなんだと知った。中傷で苦しむあの人や病気で苦しむあの人を大切に思う一方で現象、つまりイジメや病魔においてはあっけらかんと対応し、法治国家に身を委ねるのが得策。

現代がこれほど非寛容で非常識になったのは法治国家の崩壊と政治の機能停止であることは誰の目にも明らかで、そこに溜まったストレスが同種族同士の憎しみへと変換されていることを認識して上手くSNSと関わることができる人が増えればいいなと思うけど、結婚ができない=お金がない と似た問題で【ひとつしか大事にできない対応力の低下】を著しく多くの他人からも感じるので非寛容な社会は終わらないんだろうなと3.11、能登地震における非人道的な犯罪や目立ちたいだけの輩、対応が遅く現金の使い方が下手な政府、それらを言及するだけで自ら立ち上がらずに悦に浸るだけの論者を悲しく思うしかできない。

欲目には有言実行、仁には不言実行。そんなことを週初めに思えてLINEヤフーで検索を行うと10円寄付された利他な3月始めは悪くない気がした。実行有言なんだな!なるほど、『殺す!じゃなくて俺たちギャングは 殺した!なんだ』ってジョジョの話で着地して真面目な文章を台無しにしていくスタイルだからzineも出版社投稿も二の足を踏むっていうね。