人に優しくするとき心掛けているのが『まず自分が満ち足りているか』だったりする。器に水を入れて表面張力いっぱいにして器から溢れた1滴、これが他人に与えられる優しさと認識。それに気づいたキッカケはかなり前に観た伊丹十三監督の【マルサの女】で[お金を貯めるのは、どんなに喉がカラカラでも1滴1滴落ちてくる水が入るこのコップの水に手を付けないこと。表面張力いっぱいになって溢れた水滴のグラスを舐めて渇きを凌ぐこと]って話で、それから生まれる忍耐から派生した気持ちが俗にいう余裕なんだろうと。
こう考えてからは自分が幸せならいいが先行する。おかげで他人の幸せには興味がないし(全力で祝うけど)幸せマウントにも乗らないし載せないし、どんなに 私しあわせです発言をされても おぉ!よかったね、がんばって と東野幸治ばりの冷徹さを手に入れつつある。
しかし思い返せば、そもそもの器にヒビが入って生まれてきたせいからか器の中の水は常に一定の上限で止まり、自分への優しさ過剰供給で他人に冷たくなって自爆していたなと。それを今まで補っていたのが『面白さ』で面白ければ良くない?の余裕を常に持っていたけど、それが案外別れの原因にもなって【面白くないと見切る自分】と【面白いってそんなに必要?】との彼女らの意見が今にして思えば【面白くしてるのに感謝ひとつもないのか】と余裕の反対の高慢だったなと。
最近は面白さを相手に求めることを抑え【誰かとただいるだけで笑顔になれる金継ぎ】をしたせいか穏やかに水は器を満たしている。してあげた見返りを求めたときに水面に映るのは器の底が見えるほど減った状態で、見返りを求めない器から滴る雫に映る魚眼レンズな僅かな自分を常に見たい。そんな自己満足の連続が多分、自分の求める優しさ。違う価値観を面白く感じるには優しくないとな、勉強勉強。