13日

あ 罪
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Twitterをやめ、Xか。このやり取りも面倒なのでやめた。

Twitterでしか繋がれない大切さは知りつつもやめたのはもう癖なのか。定期的に退会するからオリンピック男と揶揄されるのも納得。やめるに忍びないなと思ったけど日々流れる感情論とインプレッション稼ぎによる情報の精査にほとほと呆れたのが大きく、大切だと思った人がそうじゃないとわかったあの冷めた感覚を想う。そもそもTwitterがXになった時点でやめる準備はしていた。バカなことを呟いて遊ぶアプリは一寸の狂いさえ許されない統計の装置へと変わった。

養老孟司氏が『数学ができない人は中学生で、例えば2x=6の答えはx=3が理解できない。それは数字と文字はそもそも違うという、話が違うだろの感覚があるからだ。そしてそれが、a=bも許せないとなり勉学から取り残される。a=bならaはいらない。しかし数学ができる子供は数字と文字が=であることを受け入れる。つまり自分の基準を壊すことができる。そして世界はa=bの方向へと進む。それがコンピューター、だから感覚がない人間には倫理がない』みたいなことを話していた。Twitterを見ていると倫理がない印象を受ける。彼ら彼女らは養老孟司氏の意見を借りるといわゆる数字ができる人なのかもしれない。と同時に堀江貴文氏が話す『行間を読めない中途半端な読解力』が合わさった何を話しても他人の感覚よりも世界基準を崇拝する厄介なコンピューターと感じた。

それとは別にフォロワーのひとりがやたらとメンタルに来てるツイートが目立ったのもやめた原因でもある。ミュートにはしていたけど文字が頭に残ってしまい苦しむ。しかしこれは少しタイミングが悪かった。と言うのも片やしにたいなどのツイートが流れる一方、リアルで仲良くしてる友達が本当に死ぬかもしれない病気になったことで健康な人がしにたいと呟き、死ぬかもしれない大事な友人が生きたいと話す板挟みで泣きたくなった。しにたい、に『そうだね』と純粋に言えなくなったし、その健康を友達にあげてよと思った時点でその人が求める優しさを提供できないなと反省しスッとアカウントを消した。そのしにたい人にも生きていてほしいけどかける言葉が見つからないので自分は用済み。

音楽は世界を救えないけど心は救える。数字は経済を世界を救えるけど残酷。言葉は世界も心も経済も救えないが救われる幻想を見せる麻薬とようやくわかった。

TwitterをやめてからはYoutubeでギター練習動画を見ながらギターを弾いたり、母親が毎日ヒマと話すのでニンテンドースイッチを買って大好きだった桃鉄を与えたりと財布の中身も含めて何かと忙しない。世間は能登半島地震の悲惨さだけを伝える人間味も意味もない続報や松本人志の確定でもない性加害の話で盛り上がっているらしいけど、それらを議論にもならない水掛け論や決めつけ、結局は他人任せな誘導などに惑わされることなく生きられる幸せを手に入れたのでもうTwitterアカウントを持つことはない。青い鳥と一緒に羽ばたくのも墜ちるのも悪い気はしないね。