9日

あ 罪
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他人の不幸は蜜の味を体現する人間の多さに逆行するよう大谷翔平や松本人志の話からは遠ざかり、彼らが純粋に野球や芸を楽しめたらいいなとだけ思いながら所詮は他人と、そして司法の裁きが結果的に正しくなくとも判決が出ればそれで終わりとシャットダウン。

他人の不幸が蜜の味をするときがあれば自分を不幸にするであろう、またはした他人にだけであとは同情の上辺を掬った建前しかない。同情するなら金をくれ!ってワードがむかし流行ったけど、まず金をもらう態度じゃないなとずっと思ってたから金をうまく引き出す建前も重要だなと水原一平を見て再確認。

SNSが発達してから建前は少なくなり、やたらと本音を言うことが正しいとなった。本音を言うこと自体は確かに間違いじゃないけど言う側に『見えない相手は実は人間であり心がある』常識が欠如している時点で本音を言うことは正しくないと断定してしまう。


先日、久しぶりに会社を休んだ。身体の限界は寝れば治るけど精神的苦痛の蓄積はときに爆発してしまうもので、日本人は働きすぎだ!の論調は勤勉への怠慢と自身を鼓舞する一方で日本人は休まなすぎるには同調してしまう。

他人の不幸は蜜の味を体現する職場の部下を見ていると不快が強くなり、仕事ができるのではなく自分のテリトリー内の処理能力しか高くない超個人主義でしかないそれを強く憎むようになってしまったがどうやら社長も部下のその態度にようやく、ようやく!愛想を尽かしたのか退職を促すそうで久しぶりに他人の不幸は蜜の味と言えそうな案件。しかし正直な話、それで自分個人が喜ぶよりも社内の空気が良くなる全体を考えてしまうので他人の不幸よりもやはり他人の幸せのほうが甘くて美味い。

とあるVtuberが以前ポストしていたけど『空って花火があがる度に痛くないのかな』くらい想像力豊かな感性で見えない誰かや心に接する余裕を持ってもらいたい。