たまに平和について漠然と考えるときがある。
これは誰かと仲違いしたときなんかに考えるんだけど平和って何も争いがない状態を言うんじゃなくて互いの力関係や思想の違いの均衡がとれている状態を表すんだろうなって。それが崩れたときに関係は終わるから本当に仲良くする、仲良くなるのは難しい。賢く立ち回るなら飼い慣らす感覚で接すれば正直、誰とでも仲良くはなれるけど飼い慣らす姿勢が相手を下に見る精神なので仕事関係以外ではできない。それに常々日本人というものにあまり興味もなくなってきた、これは自分が生きている間に日本が劇的な変化を遂げないのが透けて見えるからだろう。
SNSで賢い、もしくは賢そうな人たちが子供の言い争いに似た喧嘩をしたり、テレビは古いと講釈を垂れつつ未だワイドショーのネタを擦り、それでいて優生思想を掲げては同じ国民同士で罵り合うことで注目を集める快楽に溺れる一方、巨大な勢力には歯向かわずに指を咥えて支配されることを受け入れている辺り、計算ソフトがコミュニケーションツールになった時点で日本人の反骨的行動の可能性は凋落から没落の一途へと加速している印象が強く、弱者を叩くことでガス抜きされる日常が生まれた気がしてイジメがなくなるわけないと強く認識した。
SNSの炎上をほぼ全員で叩く姿を見て周りがプーチンに見えるときがある。つまり争いは完膚なきまで叩きつぶし焦土になるまで終わらないし、誰かの支援が続く限りは争いが続くのは明白。あまりにクリーンすぎる潔癖な考えの権力者が作るのは平和ではなく均衡の崩れた正義同士の殴り合いでそれに流される民衆は自分が苦労してるのに何故、誰それは幸せなのだ許せないと正義を振りかざす暴挙の連続を最近は感じる。この静かなる内戦はまだまだ長引きそうまであるのが絶望。