31日

あ 罪
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音楽をすると『する意味』を問われたりした。人間、集まるとそういうどうしようもない話がすきなんだなと外側から見ていた時期は長い。

自信を持って 趣味です、と言えるのでギラギラした仲間たちからは逃げと称され馴染めなかった。それは安定した仕事と音楽の両立よりも安定した仕事を選んだゆえの答えで音楽は楽しめたらいいし、それで自分が救われたらいいしかない。だから友達だった人のライヴに行くと音楽しかない人たちの音楽だけが救いの世界に自分だけが浮いている感覚を得た。その違いを明確に感じられたのはSyrup16gのライヴでそこには救いがないからこそ現実を生きている演奏者に救われた、やはりリアルこそが私の胸を打つ。

音楽は世界を救わないし、戦争も止められない。娯楽だから実際なくても生活必需品ではないのでそれほど困らないわけだけどNo music No Lifeとかいうスローガンのおかげで音楽が生活必需品レベルになったことで色々と面倒になった。聴く分には問題ない、もはや消耗品になっているのは止められないので諦め。問題は作って聴かせることが面倒。

特に最近の風潮だと品行方正な人物でないと何事もいけないらしく、そうなるとロックは死んだしサイケデリックロックでギリギリ抵抗するのが関の山と見て、こうなると人間そのものを深堀りする美しくもどこか悲しい、それでいて日常を大切にするあのフォークが流行るような気はラッキーオールドサンの完璧さを聴いて感じた。どの画面にも韓国や日本のダンスミュージックとカネコアヤノ、青葉市子らの類似品が数多く並ぶ優しい商店街に行列を作っては生活必需品として消費する音楽に娯楽には求められない商業的な『利便性』や『汎用性』が生まれたのについて行けない悲しさがある。もはやボロボロの小汚い犬や猫の気持ちよりも今は美しい森と水やさえずる小鳥に惹かれるのだろう。

自分が音楽をしている意味なんて『苦しくも楽しいから』しかないと思っていたけど最近は『あの頃に出会った今は連絡が取れない最悪死んだかもしれない数少ない音楽を含む芸術関係の人たちがいつでも帰って来られる場所として』歌っている。そこにいない誰かを想うつらさと向き合いながら寂しさをさらけ出せずに今年もしんしんと降り積もる虚無感が少しずつ私という器の底のヒビから漏れて終わっていく。ボロボロの犬は今日も今日とて夜に吠えるわけです。