映画はリバイバル以外に興味がなくなってきた。前回は宮崎駿監督の耳をすませば。今回は今敏監督の千年女優を視聴。
本作、何度かブラウン管や薄型テレビで拝見した作品だけど、どうしても映画館の空間と巨大なスクリーンで見たかった。というのも千年女優は内容が特にない風に見れるからで映像作品として、日本の歴史を抽水できる楽しみが強いと勘違いしているのではと自分を戒めるためにも視聴。今回、千年女優をじっくり強制的に見て今敏監督の映画は全体を通して主に人災をさらりと描いているようにも感じた。人のイマジネーションは素晴らしいが諸刃の刃でもあると常々感じてきたけど千年女優をスクリーンで見て本作もそれだと確信に変わる。
相手をどれだけ好きになって尽くしても残る感情のひとつが 自己愛 だから心の内に秘めた燃えるような好意をそのまま現実に転写するのは人災。奉仕と人災は紙一重なのだ。ジブリの良さは宮崎駿がなるべくリアルに近付けた自然と命の尊さをアニメーションとして見せて人間の矮小さ、自然の雄大さをまざまざと共感させるものと勝手に位置付けるならば今敏は脚本そのままドラマにできるくらいとことん人間に注視した愛における奉仕と災いの紙一重さをある意味で今敏作品すべてに感じる。
余談だけど本作が始まる前に予告動画がスクリーンに映され強制的に視聴した。正直なところ役者も演出家もいなくていいのではないか?と千年女優を見終わったあと更に強く思ったのでやはり原作のドラマ化、映画化は難しい。あれのほとんどには原作への愛よりも金を儲けたい意思がひしひしと伝わってくる。配役は売出し中の俳優、楽曲も同左の作品のイメージ無視。漫画構図をも無視したカメラアングルとテンポの為、添削ありきのセリフ、原作者とファンを蔑ろにし僅かな小銭を稼ぎたい制作側の怠慢、と挙げればキリがない。この連鎖が終わらないのは観に行く客がいるからで制作側の手のひらで踊らされる以上に推しの役者が見たい欲に負けて政治と同じく変われない日々が流れる。推しを推して運営に飼い殺される流れをやめない民衆の哀れさにも通じる。その意味でいうと今敏の描く世界は何にでもなれるし出来るのに何もしないまま時間だけが過ぎていく人を比較対象にして滑稽であり、人間として生まれたことに胸が痛む。そして視聴者へ『簡単に実写化できる技術はあるだろうけどやめたほうがいいよ』とコアさへ訴えてくる強さ(こわさ)を痛感。
帰りの電車で全身黒の私の横に全身白の服を着た若い女性が座る。車内はわりとガランとしていて角席も空いていたのにぴったりと横に付けられた。鼻が曲がるような香水の強さと寒さをものともしないミニスカートから伸びる衣服より白い若さの彼女のリアルを無視し、対面のガラスに映る白と黒を眺めて、まるで碁石のようだなと改めて人間を、災いをやめて奉仕を、行き過ぎた奉仕による人災をやめようと自分の中に布石を打った。
追伸 映画館から流れる平沢サウンド最高。