⚫︎傷
首に極小の粉瘤のようなもの(かさぶただったかもしれない)ができていて、なんとなく気になって触っていたらちぎれてしまった。痛みはなく手についた多めの血に気づいて驚いた。痛くないけれど流れている血と後から気づく傷について、そういうことって往々にしてあるなと思いながら止血した。自分が何かに傷ついて怒っていることにあとから気づく時とか。
⚫︎食洗機の記憶
「食洗機に皿を並べるのが上手」と、昔親に言われたことがある。言った本人はきっと覚えていないだろう。そういう言葉は、基礎工事の大岩の間に滑り込んで、岩が動かないようにきっちり収まる小さくて硬い石のようにして心に何気なく居座っていたりする。今住んでいる家は食洗機がないけれど、食器を並べ置くたびに心の奥で「私は食洗機に皿を並べるのが上手なのだ」という感情がチラリと光る。
⚫︎科博の広報物への生成AI画像利用の件
画像生成AIに問題意識を持っている層とあれらをなんとなく便利そうなものと考えている層の間にある壁がまだまだ大きいんだろうなと思った。 科博側には生成画像による検索汚染の問題等は知っていて欲しかったなとは思うものの今後はどんどん広報物へ使用することのリスクの方が大きくなっていくだろうし、以降は使わない方向に向かえば良いなと思う。予想される世論の反発やブランドイメージ悪化のマイナス面の方が単純に手軽さ、楽さを上回るのでは...と考えているだけ。
ときに、広告における画像は、訴求時の鑑賞者の心の動きを想定して選定する必要があるため綺麗であればなんでもいいということもないのだが、街中の広告などで生成画像が使われているのを見ると綺麗であればいいと思っている層も多いのかなと思う。余白を埋めるために入れたものは余白埋め以上の存在にならない。そこに必然性がなくては上手い絵を使っても良い広告にはならない。(昔の上司の受け売り。)
感情の動きはお気持ちだと揶揄されがちだが、生成AIが利用を想定している部分の一つであろう広告利用の際にも、広告を見た人を動かすのはやっぱり見た人の感情だと思う。
私はいつだって誰かが傷ついたり食い物にされた上でしか成り立たないようなものには反対していたい。これもお気持ち。
⚫︎好きな方々のX撤退の動きを見て
好きなグラフィックデザイナーさんがXから撤退なされた。最近の広告の質の悪化を受けて、お客さんと協働しつつクライアントワークを発表するに適した場ではないと判断なさったみたい。確かに最近のプロモーションはちょっと外では見られないようなものが混ざっている時がある。これに慣れないといけないのかな、これに慣れた自分を想像してそれはそれで嫌だな...と思う。
宣伝用に一つアカウントを残したのだが今後どうなるだろう。とりあえず今後も変わらないだろうと思えるのは自分についてだけで、絵を描くことが自分にとって趣味というには重たいものだという事実のみだなと考える最近だった。
2024/11/29