対話

当たり前のことだが、全く同一の価値観を共有する人間は存在せず、また、人間同士が互いを完全に理解し合うのは不可能だ。

どれほど会話を重ねても、言葉だけでは心の有り様の1%すら伝えられないだろう。たとえ身体を重ねたとしても、各々が感じる痛みや快楽は全くの別物で、それらを共有する手段は存在しない。

だから、二人以上の人間が関われば、必ず意見の食い違いが生じる。コミュニケーションというのは、考えの不一致を確認し、妥協点や解決方法を探るために行われるものだと言ってもいいのかもしれない。

不一致を解消するのに最も簡単な方法は、いずれかが全面的に譲歩することだ。各々の価値観を照らし合わせて、引ける方が引くというのが理想的な解決だろう。しかし、全ての利を相手に譲るというのは、感情的になかなか難しいことでもある。

一方の譲歩で解決できない場合は、互いが納得できる妥協点を探ることになる。両者が時には歩み寄り、時には譲り合い、合意を目指す。

もちろん、意見や考えの不一致の解消において、真に対等な妥協点などありえない。客観的には平等な解決に見えたとしても、当人達の価値観からすれば、互いに譲った部分が等価だと思えることなどないだろう。

なので、不一致の解消において重要なのは、妥協点をどこに置くかを追及することではない。解決の結果よりも、そこへ至るまでの対話の方がより肝要だと考えられる。

価値観が大きく異なり、多くの食い違いが生じる相手だとしても、対話を続ける意志さえあれば、関係を続けることは可能だ。そして、不一致を相互確認し、解決するプロセスを経れば経るほど、その関係性は深まり強固になっていく。

趣味嗜好が合致する相手と話すのは楽しい。だが、些細な不一致で不和が生じ、それを対話によって解決できないのであれば、その関係は浅いままで終わるだろう。けれど、どれほど価値観が異なっていても、対話を続けられる相手とならば、深い関係を築くことができるだろうし、場合によっては、その人が人生において非常に重要な存在になり得るかもしれない。

全く同一の価値観を共有する人間は存在せず、また、人間同士が互いを完全に理解し合うのは不可能だ。不一致の連続は、互いの精神的負担も大きい。悲しみや怒りが募れば、涙を流しながら激しい口論をすることになるかもしれない。しかし、それでもなお、相互に対話を続けたいと思えるのであれば、その出会いは本当に稀なものであり、何にも増して大切にするべきだと、自分は思う。