
「孤独」は「」に囲まれていて、たくさんの文字たちにも囲まれている……それでも孤独だというのか……それが孤独というものなのか……
お客さんが来なくてかなしくなっているときに更新されるシリーズ、満を持してこの本が選ばれました。本日の売上は760円です。
フェイ・バウンド・アルバーティ『私たちはいつから「孤独」になったのか』(神崎朗子 訳/みすず書房)
本屋とは孤独な商売である。と書くとそれっぽくてなんかいい感じだし、そういうことにしておきたい夜もある。いまがそう。たくさんの本に囲まれていながらも、私は孤独……。
しかし必ずしもそうではない。少なくともチェーン店においては、基本的に孤独とはなんぞや〜?な時間が流れていると言ってよいだろう。私がアルバイトをしているチェーンの本屋は時間の流れがゆっくりなほうだが、それでも本屋lighthouse1ヶ月分の売上を数日で軽々と超えるのだから、ポイントカードにスタンプを押しながらふとそのことに意識が至ってしまうと、ひっそりとエモくなってしまう。いまもエモくなってしまった。
自分を理解してくれる人がいない、友人や伴侶が得られない、最愛の存在を喪って心にぽっかりと穴があいたような気持ちがする、老後の独り居が不安だ、「ホーム」と呼べる居場所がない――このような否定的な欠乏感を伴う感情体験を表現する語として「孤独」が用いられるようになったのは、近代以降のことである。それまで「独りでいること」は、必ずしもネガティブな意味を持たなかった。孤独とは、個人主義が台頭し、包摂性が低く共同性の薄れた社会が形成される、その亀裂のなかで顕在化した感情群なのである。
私たちはいつから「孤独」になったのか。私たちの範囲を「本屋」に、特に1日の売上が数万円程度である零細本屋に限定するならば、お店を始めたとき、あるいは始めようと思ったとき、としてもよいのかもしれない。数人の来客と購入を前提とした事業計画、つまり最小人数でやっていく「生き方」を選択した瞬間から、私たちは孤独を受け入れている/受け入れざるを得ない。
それは決して後ろ向きな選択ではなく、そのほうが心地よいからということもある。孤独は“歴史的に形成されてきた概念であり、ジェンダーやエスニシティ、年齢、社会経済的地位、環境、宗教、科学などによっても異なる経験である。いっぽう、現代において孤独がさまざまな問題を引き起こしていることも事実であり、国や社会として解決しようとする動きが出てきている。その際まず必要となるのは、孤独を腑分けし、どのような孤独が望ましくなく、介入を必要とするのかを見極める手続き”なのだ。
今日の来客は大人1名と、子どもがたくさんだった。子どもたちは駄菓子をたくさん買っていき、それが260円という子どもにとっては大金でもある金額になっている。少し時間が経って10円ガムの当たりを出した子がやってきて、でもその子がガムをすべて買い占めていたので引き換えるガムがなくて、代わりに30円のチロルチョコが貰われていった。
最初に来たときも店内にはほかにだれもいなかったし、当たり券を持ってきたときもだれもいなかった。というかいつ来てもだれもいない気がする。常連でもあるその子はきっとそう思っている。あるいはいつか気がつく。大丈夫なのだろうか。10円のガムの当たりで30円のチロルチョコをもらってしまったけど、20円の損はヤバいのではないか。
そしてそこからこうも思うかもしれない。そもそもあのお店はいったいなんなのだ。本が置いてある。でも本はレジ前にある「ちょきん」を使えばタダでもらえる。物々交換ができる棚もあって、そこには本以外も置いてある。このまえモバイルバッテリーをもらうためにチキンラーメンのとりさんとマザー牧場のぶたさんを持ってきて交換してもらった。本屋なのだろうか。そもそもお店じゃないのかもしれない。お店じゃないなら大丈夫か。
といったことを書いていると、大丈夫になってくるから不思議である。かれらが大人になったときにふと、子どもの頃に通っていたよくわからないお店みたいな場所のことを思い出して、懐かしくなったりするかもしれない。あるいは、どう考えても成り立っていなさそうなお店なのになんだかんだで存在し続けていたのだから、人生とはどうにでもなるものなのだな、などと安心するかもしれない。あのお店、入るといつも人がいなくて、お店の人も奥の部屋で寝てたりしたんだよな。それでいいのか、人生。それでいいのです、人生。本屋とは、孤独でありながらも未来を紡ぐ商売なのです。
とか書いてたらお客さん来るかな、と期待してたけどだれも来なかった!!閉店まで残り30分!!だれか、だれか〜!!