代わりに読んでほしいという依頼を受けた私はサイゼリアにいた。サイゼリヤだろうか。いつもわからなくなり、声に出して確認してみるも、ふだんから明瞭な発声を意識しているわけではないためいずれにせよわからない。机上のメニューを見ると「ヤ」の文字が目に入った。いい機会だと思い「ヤッヤッヤッ」と繰り返し発声し意識づけることにした。その声は明確に、それともはっきりと、いやくっきりと、向井秀徳だった。

向井秀徳のバンドZAZEN BOYSのライブ音源が配信サービスに登場しているのに気がついた私は、お店のBGMとしてリピート再生する日々を送っていた。向井秀徳の声は独特だ。アルコールで潰しているとしか思えない濁声、しかし不思議なまでに迫力と魅力を備えたその声に、私の耳はいつも惹きつけられる。とはいえおそらく大多数の者が、向井秀徳の声を「正しい」とは思わないであろう。
この本は、あなたが、あなたの「こえ」と「からだ」を自覚し、魅力的に向上させるための具体的なレッスンを書いた本です。あなたが「正しい発声」と「正しい体」を手に入れ、魅力的な表現へと進むために、これだけはという「こえ」と「からだ」の必要最低限のレッスンだけを書きました。(p.13)
全人口の80%以上が、お〜ぅエイティーパーセント以上が、ん〜80%以上が、約8割以上が、向井秀徳によるとHENTAIなのだが(「SUGAR MAN」を参照)、同様に全人口の80%以上が、鴻上の「正しい発声とは何ですか?」という問いにもうまく答えられないに違いない。鴻上はこのように続ける。
あなたが考える「正しい発声」とは何でしょう? だって、それが分からないのに「発声」ができないといって悩んでいるのは、おかしなことです。自分なりに、「正しい発声」とはこういうもので、だから、自分の今の発声のレベルはこうだと分からないと意味がないのです。(p.19)
正しさとはなんなのか。思い出すのは、幼少期から続けていたサッカーのことだった。正しいドリブルや正しいシュートとはいったいなんなのか。正しいチーム戦術とは? いたるところに「指導者」が提示する(いや、正確にはかれらが欲しがっている)「正解」はあったが、それは果たして私(そしてともにボールを追いかけていた者ら)のための「正解」だったのだろうか。特に成長過程に大きなバラつきがある小学生から中学生にかけては、そもそも「正しいからだの使い方」自体に個人差がある。
スポーツ現場に限らず、日本での育成方法は「自分の頭で考える」ことをしにくくさせているとよく言われる。指導者の欲する正解を察知する能力が伸びていく一方で、各々にとっての正解、ひいては状況に応じて導き出されるベター解のようなものを探し出す能力は抑制される。
繰り返される諸行無常。と向井秀徳が歌っている。向井秀徳は同じフレーズを何度も繰り返す。諸行無常はNUMBER GIRL時代から繰り返され、性的欲求も同様に何度も蘇っている。このライブでは「MATSURI STUDIOからやってまいりました、ZAZEN BOYSです」という口上が何度も繰り返されている。そんなことはわかっているのだ。初見の客でも1回言われればわかる。しかし向井秀徳は繰り返す。
繰り返しの効用は、意識せずともできるようになる、というものだ。鴻上のレッスンも、そのほとんどが繰り返しによって構成されている。同じ音、同じ姿勢、同じフレーズ、同じ状況、などなどを繰り返す(しかし無理はしない)。これらは概ね、シンプルな構造の繰り返しだ。その先にあるのが「無意識」というものなのだが、実はその一歩手前に「理解」がある。「言語化」と言ってもよいが、時に言語化できない「理解」も生じうる。私が知っているそれは、たとえば「バー当て」のときによく訪れた。
ゴール正面、ペナルティエリアのすぐ外からゴールポストの上枠、通称「バー」にサッカーボールを蹴って当てる練習をし続けていた。父と小学校の校庭で、中学に上がってからはクラブチームの練習場でひとり、時間があればこの練習をしていた。「目をつぶっていてもできる」というのは常套句だが、まさにそのような感覚になるときがあった。助走の歩数と角度、スピード、そして右足を振り抜くときの“感覚”としか言いようがないそれらは、そのままゴールバーに向かって軌道を描いていた。グラウンドに吹きつける気まぐれな風までもが、その軌道のなかに吸い込まれていく。気がつくとゴールの向こうには夕陽が現れていて、地面を斜めに延びたゴールの影と私の身体はつながっている。あのときの私は、誰がなんと言おうと「正しいからだ」をしていた。
高校生になり、はじめて「部活」というものに入った。上下関係というものがそこにはあり、当然ながらそこで求められる「正しさ」はその影響を強く受けていた。繰り返される理不尽な支配関係と各種暴力の被害者は、下級生から上級生になるタイミングで加害者へと変化する。加害者になることでしか逃れられない絶望、癒すことのできない傷が、その地獄では生まれてしまう。あの頃常に出していた大声は、誰がどう見ても/聞いても正しい「こえ」ではなかった。「からだ」も徐々に正しさを失っていった。日々繰り返される絶望から逃れる術は、加害者になるか、その場を去るか、その二者択一だった。「からだ」が壊れた私は、幸か不幸か後者を選ぶことができた。壊れた「こころ」のまま部活にいなくてはならなかった者らは、大なり小なり支配と暴力の加害者となっていった。あの頃の私たちに、支配構造から健康な身体のまま逃げてよいという選択肢はなかったのだ。地獄のような環境を変えるという選択肢だって当然ない(結局のところ、このような環境を最上部から構築・維持しているのは顧問という大人=権力保持者だからだ)。この地獄は何十年も繰り返されてきたし、いまもいたるところに存在している。一度壊れた「こころ」は簡単には戻らない。あの頃、夕焼けは絶望のはじまりだった。
「全部全部知ってる」と向井秀徳が歌っている(「DANBIRA」)。私もそう思った。広陵高校野球部の暴力事件が明るみになったとき、いや、これまでに何度も同様の事例が世間の知るところになったとき、そのたびにぜんぶ知ってると思った。そこは「憤懣やるかたなき人が集まる絶望シティ」で、「発展途上のイノセンス」と「無邪気にはびこるマッドネス」に彩られていた。すべてが「いつか見たバイオレンス」だった(同上)。
先輩を校内で見かけたとき、1年生はどんな場所でも大声で挨拶をしなくてはならなかった。先輩がこちらの存在に気がついていなくても、先手を打って挨拶をする。いや、挨拶ではない。大声を出すのだ。大声ですらなかったかもしれない。恐怖と怒り、そのほか様々な負の感情がごちゃ混ぜになった塊を、人の形をした何者かに向けてぶつけていた。
四つ目は、言葉を根本の所で信用していない場合です。(中略)「言葉なんか、本当は意味がない。言葉は関係ないんだ」と心の深い所で思っている人は、滑舌がよくなることはありません。(p.150)
その頃私たちが強制されていた挨拶は、どうにか音として表すならば「チョス!」としか言いようのない音の塊だった。おはようございます、こんにちは、お疲れさまです、などなどが合体し、とにかく「大きな声で」「すばやく」挨拶をするために、長年の歴史が生み出した代物だったのだろう。そこには滑舌もクソもなかった。もはや大声であればなんでもよかった。「どんなシチュエーションでも大声を出す」ことで、1年生に恥ずかしさを覚えさせるのが目的なのだから。言葉への信用はもちろん、他者への信用も失われていった。
言葉を信用してない限り、滑舌の進歩は望めない場合が多いです。そういう人に出会った時、僕は、いつも、「言葉はもちろん、すべてではありません。だけど、言葉をぎりぎりまで話すことで、言葉にできないものがやっと見えてくるんです」と言います。言葉を信用してない人は、言葉にすることを最初から放棄します。そうすると、何が見えて、何が見えないかが分からないままで終わるのです。「とりあえず、言葉を信用してみませんか? そうすれば、言葉にできないものが見えてきますから」と言うのです。(p.151)
私たちが言葉への信用を失ったのは誰のせいなのだろうか。先輩だろうか。その先輩も1年前には壊れた「こえ」を出していた。そのまま壊れたままの「こえ」が、私たち1年生に「大声で挨拶しろ」と指示を出している。おそらく、先輩の耳には「いつか聞いたバイオレンス」が鳴り響いていたはずだ。言葉を信用するということが他者を信用するということであるならば、私たちがその信用を取り戻すために必要なことは、いったいなんだったのだろうか。そしてその術はあったのだろうか。
いびつに震える声でしか話せないわたしには「魅力的な「こえ」と「からだ」を作るために」というこの本の副題がずっと印象に残っていた。発声も身体もおぼつかない。しかしみずからの「こえ」と「からだ」に向き合うだけの勇気もない。そうやってこの本はいまに至るまで手に取られずにきた。
丹渡さんの言う「いびつに震える声」とは異なるであろう、別種の「いびつに震える声」をあの頃の私たちは発していた。実際に発声されて空気を震わせた声もあれば、発声されずに己の心の中のみを震わせた声もある。いまもそうかもしれない。信用を取り戻したという感覚はない。いまも私の、いや私たちの「こえ」と「からだ」は彷徨っている。
それでも私の耳に向けて「今日も夕暮れはゆがんでいる」(「YAKIIMO」)と歌う向井秀徳は、歌詞の内容に反して、そして私が思い出した過去に反して、なぜかのびのびとしているように聴こえる。
それでも私は知っているのだ。ゆっくりと駆け出し、足を振りぬき、飛んでいったボールが震わすゴールポストの金属的な響きを。己の右足を発端に身体全体を震わせていく振動を。己の奥底から生じてきた、決して明瞭な音にはならないよろこびの声を。それらはすべて意識の外にある。外にあるが、私は知っている。全部全部知ってる。繰り返しの先にあるものがなにかを、私は知っている。そのとき鳴り響いている「こえ」は、鳴り響いている音は、それらすべてを鳴り響かせている私の「からだ」は、確実に正しかった。そのことを、いまの私は知っている。私は「繰り返し」が持っている善の力を、信用したいのかもしれない。
あの頃、突然投げ込まれた地獄から逃れる術を持たなかった私たちが、いま、自分の「こえ」と「からだ」を取り戻せていることを願っている。「スピーカーの音は絶望的に歪(ひず)んでいる」(「YAKIIMO」)し、そう歌う向井秀徳の声も絶望的に歪んでいる。今日もやっぱり夕暮れはゆがんでいるが、私は向井秀徳が気持ちよさそうに歌うこの曲に、絶望的にゆがみはじめる前の夕暮れのなかで感じた楽しさや希望を見出している。できれば、あの頃同じ地獄にいたみんなで歌いたい。いや、大声で叫びたい。あの頃は許されなかった、ぼそぼそとした声でもいいかもしれない。各々にとっての正しい「こえ」と「からだ」で歌おう。
い〜しや〜〜〜〜きいも〜〜〜〜、おいも〜〜〜〜。