
幻戯書房のルリユール叢書はとにかく揃えたくなる面構えをしている……
唐突にはじめる「だれか代わりに読んでください」シリーズ。初回はこちら。
エヴァン・ダーラ『失われたスクラップブック』(木原善彦 訳/幻戯書房)
まずは出版社による紹介文を確認しよう。
“ポスト・ギャディス”と目され、リチャード・パワーズが正体とも噂された、トマス・ピンチョン以上に謎めく、ポスト・ポストモダン作家エヴァン・ダーラ――“読まれざる傑作”として話題となった、ピリオドなしの、無数にして無名の語りで綴られる大長編の奇書がついに本邦初訳で登場!
帯にある(おそらく本文からの抜き出しであろうピリオドのない)文章も書き出してみる。
空が海を飲み込むこの場所で、私はよろよろと時間の縫い目に向かう そこはたどり着けない場所なのだと分かるところまで、私に近寄らせてほしい このゆっくりとした落下、私の進歩は、消失と透明性――不透過性の透明性――に到達するための運動なのだと言ってほしい
このわかりそうでわからない文章に、私はなにかをつかまれてしまう。「ユートピアとはどこにもない場所である」と記したクリシャン・クマーのことを思い出させるからかもしれない。落下が進歩と結びつけられる逆説的なありかたは、右肩上がり的な“進歩”の思想をもとに発展していった、しかしそれを信じていたがゆえに失敗した20世紀初頭のユートピア思想、そしてそこからレールが切り替わったかのように登場しはじめるディストピア文学をも想起させる。みたいな小難しいことを書いておきながら、実際のところ私はほとんどわかっていない。不透過性の透明性ってなんなんだろう。ぜんぜんわからない。不燃性の燃えるゴミ、全自動型手動bot、みたいなことだろうか。そこはたどり着けない場所なのだと分かるところまで近寄らせてほしいのは私だった。
ピリオドがない、というところから想起させられるのはやはりジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』第18挿話「ペネロペイア」だった。モリーの“意識の流れ”がピリオドなしで、というかたしかカンマすらなかったのではないか、とここでも自信を持って断言できないのはやはり『ユリシーズ』もほぼ未読だからであり、修士時代に授業でこの章だけ読んだんだったか、それともはじめから順に読んでいって途中で力尽きたのだったか、それすらもわからないくらいには未読であり、記憶にあるのは教授の思考回路自体がジョイス化しているかのような“意識の流れ”の濁流的授業になっていて、ほとんど話が理解できなかった、というのは正確には学部の頃の話で、もしやこの教授、思考そのものがジョイスと化しているのではないか、と修士に上がってからようやく気づき、そこからはそういうものとして話を聞いてみることで「わかった」のだった。ようするに、わからなかったのだ。おそらくこれこそが“そこはたどり着けない場所なのだと分かるところまで、私に近寄らせてほしい”なのかもしれない。図らずもその経験をしていたことに、いまここで気がついた。
ピリオドがない、というのはユートピア的でもある。どこにもない場所であるユートピアとは、どこかにあることを願ってそこに辿り着くことを目指している限り「どこかにある」存在であり、ここがユートピアだとピリオドを打った瞬間に姿を消す、もしくはディストピアのはじまりとなる。つまり未読というのは、あるいは読み終えられないというのはユートピアへの途上にあるということであり、それは決して悪いことではないのだな、と積読を肯定するところで今回は終わる。たぶん、毎回こうやって終わる。私の積読は、消失と透明性――不透過性の透明性――に到達するための運動なのだと言ってほしい。だれか代わりに読んでください。
代わりに読んでもらえました٩( ᐛ )و